「あうー、いたたたた……」
放課後の学校の廊下で、零は柱に手をついて腰を叩いた。帰宅や部活に向かう幾人かの視線が背の低い少女に向けられるが、零はお構いなしだ。
「と、年かな、これは」
零は自虐のジョークを呟くが、もちろん腰痛は加齢によるものではない。昨晩、真中と嶺に散々弄ばれたせいだ。嫌がる零を押さえ込んで、二人の同居人は何度も何度も彼女を愛撫し続けた。夕食後に風呂で始まり、明け方近くなって零はようやく解放されたのである。ガーディアンの身体の頑丈さは常人を遥かに超えるが、その五体が悲鳴をあげるほど二人の責めは容赦なく、激しいものだった。
「二人とも、普段は優しいのに……何でだろうな?」
いつもは甘やかすと言っていいほど優しい真中と嶺が、泣いて許しを請う自分を何度も犯す理由が分からず、零は首を傾げる。零は気付いていないが、それは彼女の色気のせいだった。幼い容姿なのに、恐ろしく妖艶な表情と声で泣く零に、真中も嶺も冷静では居られなかった。一度射精したら冷静さを取り戻すことが多い男と違い、タチの女は何度でも快感を貪ろうとする傾向もあるだろう。涙を溜めた濡れた瞳で、零が甘いかすれ声を使って「やめて……先輩……」と言えば言うほど、真中と嶺を煽り立てていることに気付かないのだ。
「このまま、死んじゃうかもしれないな……」
ブツブツと文句を言いつつ、零は廊下を歩み出す。無意識に二人の恋人達に抱かれることに、零の体は女としてこの上ない歓びを感じているのだが、本人は気付いていなかった。真中と嶺に女性の喜びを教えられて、零は身も心も女に傾きつつある。
「せーんーぱーいー!」
「わぷっ!」
背後からドップラー効果のかかったような声が聞こえたと思ったら、零が振り返る間も無く、タックルのように抱き締められた。あまりの勢いに、零は倒れそうになるが、かろうじて踏み止まる。
「零先輩、先輩、せんぱーい」
タックルしてきた少女は、零のことを抱き締めて、頬擦りする。零より身長が高い彼女は、滅多に見ない片側だけ髪を縛っているというサイドテールという髪型で、人懐っこそうな顔立ちをしている。誰にでも好意を抱かれそうな容姿だ。
「か、香奈恵ちゃん……い、いきなりタックルして来ないで」
「えー、何でですか?」
柔らかな少女の柔肌を押しつけられて困惑する零に、香奈恵と呼ばれた少女は不思議そうに聞く。
「もしかして、痛かったですか?」
「いや……いきなりだったから心臓に悪い」
一向に離れない香奈恵を零はやんわりと押し返そうとするが、彼女は身体を離そうとしない。顔を零の頬にピッタリと押しつけて、しきりに頬摺りする。
「だって、零先輩可愛いんですもん。ああもう、こんなにちびっちゃいのに先輩だっていうのが……」
「い、いいから離れて……」
零がかなり力を入れて香奈恵を押し返すが、後輩である少女は零にくっついたままだ。バイクぐらいは軽く持ち上げてしまう零だというのにだ。
「これから、図書館に行かなくちゃいけないから……」
「ああ、いいですよ。お供しますよー」
香奈恵は零のことをひょいっと持ち上げる。零の体重が軽いため、香奈恵はいとも容易くやってのけた。
「ああもう……わかった、連れて行って」
「はいはーい。香奈恵に任せて下さいね」
零は抵抗する気が失せたのか、ぐったりと力を抜いて香奈恵に身を任せる。香奈恵は嬉々として零の身体を抱えて、図書館に歩き始めた。もちろん周囲から、かなり好奇の視線を向けられるが、零は無視することにした。こうなると香奈恵に抵抗しても、あまり意味が無いことを知っているからだ。
零が中尊寺香奈恵を知ったのは、つい最近だ。香奈恵は校舎が違う中等部に通っているが、わざわざ違う校舎にまでやって来て、零に声をかけて来たのだ。零には理解し難いが、香奈恵曰く、零先輩が可愛くて可愛くて、気に入ったからだ……とのことだ。既に真中と嶺という前例があるとはいえ、零には自分の何処に少女達が惹かれるのか、理解し難い。香奈恵は放課後になると、ちょくちょく高等部の校舎へとやって来て、零に抱きついて来るのだった。そうなると、当然問題が発生するのは自明だ。
「……中尊寺さん」
廊下を歩く香奈恵の背後から、ゾッとするような冷たい言葉が浴びせられる。だが香奈恵は顔色一つ変えず、後ろへと振り向く。
「あれ、真中先輩、こんにちは」
「……名前で呼ぶのは気安いと思わない?」
視線だけで人を殺しそうな目で香奈恵を見る真中を、後輩である彼女は顔色一つ変えずに受け止める。
「えー、零先輩は真中先輩って呼んでるじゃないですか」
「零は特別よ。それに、いつまで零に抱きついてるの」
真中はつかつかと近寄ると、零の身体を香奈恵から引き離す。香奈恵は苦笑しつつ、あっさりと零から離れた。
「零にベタベタしないで」
「はいはい、わかりましたよ。怖い先輩が来たから、退散します。零先輩、また後で」
「二度と現れないで」
香奈恵は、零に挨拶すると、真中の威嚇も何処吹く風という様子で去って行った。真中はその背中を睨みつけていたが、やがて零へと心配そうに視線を向ける。
「零、大丈夫?」
「う、うん。平気だよ」
心配をするような瞳を向ける真中に、零は笑顔でアピールする。実際のところ、零は真中達のせいで体がボロボロなのだが、本人を前にして言えるわけもない。
「全く、油断も隙も無いわよね」
零の背後から音も無く現れた嶺が、彼女の体をひょいっと持ち上げる。柔らかな感触と共に、零は力強く抱きしめられる。
「み、嶺先輩!?」
「……泥棒猫は一人じゃなかったわね」
再び抱えられて慌てる零にを見て、真中は嶺を睨みつける。
「きゃー。零、怖いお姉さんが睨むわー」
「零を離しなさい」
「ふ、二人とも喧嘩は良くないよ」
からかう嶺に対し、真中はムキになって怒る。
「そんなすぐにキレちゃうようなお姉さんは、零も嫌だって」
「なんですって……」
「や、やめてよ、二人とも」
零は穏便に宥めようとするが、真中の怒りはどんどん募り、嶺は更に調子に乗る。好きな女性二人に挟まれた形となった零は、両者の間で動揺するだけだったがやがて、
「うう、二人とも止めてよー、わたし、わたし……」
「ぜ、零?」
「ちょ、ちょっと……」
涙を浮かべる零に対し、真中も嶺も怒りが途端に萎む。男は女の涙に弱いと言うが、女だって女の涙には弱いのだ。
「ご、ごめん、やりすぎたわ」
「もう怒ってないから。零、大丈夫よ」
「本当に?」
「本当、本当。ねえ」
「ええ、ちょっとじゃれただけよ」
泣き顔だった零は、嶺と真中が喧嘩を止めたのを見て、緊張を解く。好きな子が泣くのを止めたのを見て、真中と嶺もほっと一息つく。恋敵が近くに居るのでついついヒートアップしてしまうが、零は二人の争いを止めるためなら、命だって惜しくないのだ。二人が争って、一番傷つくのは零の可能性が高かった。
「零、図書館に行くなら付き合うわよ」
「ありがとう」
「私も行くわ」
嶺の誘いに零が乗り、真中も便乗する。零は二人が喧嘩を止めて、心底安堵していた。二人がいがみ合っているのを見ただけで、胸が苦しくなり、自然と涙が出てしまったのだ。だがそんな零を見て、二人とも争うのを止めてくれたのだ。それだけ二人とも零のことを気にかけてくれているのだろう。そう考えると、最近どんどん涙脆くなっている自分も悪くないと零は思ったのだが。
(……待てよ)
自分の気付かぬ間に、少女化がどんどん進行している。最近では、他に誰も居なければ女子トイレに入るのに抵抗は無いし、毎朝ショーツを履くのもその日の気分で柄を決めている。自分の人格が徐々に上書きされていくような恐怖に、零は思わず頭を抱えてしまいそうになる。そのうち銭湯で女風呂に入っても欲情しなかったり、男のヌードにドキドキしてしまう日が来るかもしれない。
「う、うー……」
「零?」
「な、何でも無いよ」
心配して声をかけた嶺と、真中に零は手を振って答える。日々女として抱かれていることが、零のことを身も心も女性へと転化しているのがわからず、彼女の苦悩は深まるばかりであった。
「世は事も無し……か」
家への帰り道に、零が小さく呟く。
「どうしたの、零?」
「な、なんでもないよ」
零の奇妙な発言に嶺が聞き返すと、彼女は手を振る。
いつものように図書館で何か悪魔が関係ありそうな事件は無いか、零は調べたのだが特に収穫は無かった。そもそも悪魔が表立って活動することがあまり無い以上、マスコミの出版物に載るのは極めて稀だ。これまでも新聞で得た情報を元に、薬物汚染が激しい地域に零が当てずっぽうで乗り込み、見つけた悪魔を尾行して相手の拠点を突き止めるという、何とも非効率的な方法で悪魔達を探してきた。今までが運が良過ぎたのだ。何か別の情報源を見つけなければと、零は真剣に考え始めている。
「夕飯はどうしようかしら?」
「たまにはフライドポテトが食べたいかな」
「……アメリカ帰りの人が考えることはよくわからないわ。そんなの、夕飯のおかずにはならないでしょ」
「うーん、そういうものなんだ、日本では」
真中と嶺は零の苦悩を余所に、極めてのんびり会話をしている。二人にしてみれば、悪魔退治などどうでもいいのだ。零が傍に居るだけで幸せで、悪魔を追うのも零を危険な目に合せないためだけに付き合っているに過ぎない。非常に独善的とも言えるが、それだけ零を深く愛しているとも言えた。
「…… あら」
「どうかした?」
真中が通りにある一軒のアンティークショップに目を留める。外見は随分と地味だが、店舗自体は随分と広そうな店だ。看板にはアンティーク・イーダと書いてある。
「こんなところにこんな店があったって気がつかなかったわ」
「あんまり興味引かないからね」
「丁度いいわ。零のコーヒーカップを探してたところだから」
真中がスタスタと中に入ってしまい、嶺も黙って後に続く。真中がいきなりアンティークショップに立ち寄るとは思いもよらなかったが、零も買い物に付き合うのに依存は無い。二人の先輩に続いて、中へと入る。
「結構本格的だ……」
「アンティークショップって、こういうものじゃない?」
高そうな家具や食器がずらりと並べられているのを見て呟いた零に対し、嶺は怪訝そうな顔を作る。零はあまりアンティークショップに入ったことが無いので、一般的にはこういう雰囲気なのかは知らなかった。
(待てよ……)
零は立ち止まって考える。彼女は自分がアンティークショップにあまり入ったことが無いと知っている。だが記憶喪失の自分が、何故こういう種類の店にあまり入ったことがないのを知っているのだろうか。細かい過去の行動は覚えていないのに、時たま自分はこういう人間だという記憶を感覚的に思い出すことがある。もしかして、そこに自分自身を見出す手がかりがあるのではないだろうか。
「いらっしゃいませ」
「えっ…… うわわ」
声をかけられた零は、振り向いた先にメイド服が目に入ったので驚いて悲鳴を漏らした。おまけによく見れば、古風なメイド服を着ているのが、金髪の美女だ。零が驚くのは無理も無い。
「申し訳ございません。驚かせてしまったようでして」
「い、いや、こちらこそすみません」
ドキドキする心臓を落ち着かせようと深呼吸しつつ、目の前のメイドに零は頭を下げる。どうも女になってから、小さいことにも驚いてばかりだ。肉体的には強固になっているのに、かなり小心者になっている気がする。
「ん?」
メイドを見る零の目が細められた。何か違和感のようなものを零は感じ取ったのだ。
「お気づきになられましたか、幸田様。私は悪魔です」
「なっ…… 何で俺……いや、私の名前を!?」
零は驚きで思わずメイドから数歩下がってしまった。何故アンティークショップにメイドがいるのか、何故悪魔がメイドの格好をしているのか、何故メイドというか悪魔が自分の名を知っているのか。零は数多くの疑問に、困惑してどう対処していいかわからず、メイドの顔をじっと見ているしか出来なかった。頭では鎧を作れ、アーマードフューリーを呼べと言っているのだが、体がまるで反応しない。
「幸田様、ご安心下さい。私には幸田様を害するつもりは毛頭ありません」
「で、でも……」
「まずは座って落ち着いて下さい」
メイドが近くにあったアンティークの椅子を指差す。零は恐る恐るという感じで椅子に腰掛け、メイドも椅子へと座った。
「自己紹介が遅れました、わたくし飯田と申します」
「わ、私は……」
「幸田零様ですね。存じております」
未だ悪魔を前にどう対応して良いかわからない零に対して、飯田は彼女を観察するようにじっと見る。
「実は幸田様にお話があります。良ければ聞いて頂きたいのですが」
「………」
「悪魔は信用なりませんか?」
「…… 正直に言うと」
「それは無理もありませんね。ガーディアンと悪魔は本来ならば、不倶戴天の敵なのですから」
飯田は唇の端を僅かに上げて、微笑む。
「そもそも、幸田様は悪魔が何者か知っておいでですか? それ以前にガーディアンが何者かも」
「そ、それは……」
零は若干挑発的とも取れる飯田の質問による答えに窮してしまう。考えてみれば悪事を働いている人の皮を被った怪物というだけで、零は悪魔のことについては良く知らなかった。自分がそれを識別し、倒すガーディアンの能力があるから使っていたに過ぎない。そもそもこの超人的な能力を発揮する力は何処から来たのだろうか。
「ガーディアンについては生体兵器ということしか知らない……」
「生体兵器……大まかに言えば合っているでしょう。ガーディアンは人類に敵対する怪物を退治するための存在ですからね」
飯田は深く頷くと話を続ける。
「ガーディアンの発祥は古代ギリシャに遡ります。その頃、人類を見守っていた神がこの世界から手を引くという話が持ち上がり、ガーディアンが作られたと言われています」
「えっ、神様?」
唐突な飯田の話に零は呆けたように飯田を見やる。まさか神などという、現代日本ではあまり存在を実感できないものを引き合いに出されたからだ。
「ええ、神です。これについては、我々もよくわかっていないんですが、この世界の監視役とでも思って下さい。その神はかなり強力にこの世界を保護してたんですが、何故か悪魔に抜け道を用意してくれて、制限つきですが我々が入れるようになりました。ですから、我々は言わば……ビザで来ている不法労働者だと思って下さい」
「ビザがあるのに不法労働?」
「まあ、やっているのは人類を堕落させるための行動というのがほとんどですので、犯罪者ですね。今はガーディアンはそれの取り締まり捜査官とでも思って下さい」
「なるほど」
「それで最初の質問に対する答えですが、悪魔はこの世界とは違う次元からやって来る悪い生命体だと思って下さい」
飯田の説明を零は熱心に聴く。彼女の話は分かりやすく、零がもし外見通り幼女の精神年齢だったとしても、理解していただろう。
「それで私の知る限りですと、幸田様は内閣特殊事案対策室の秘密プロジェクトによってガーディアンの力を移植されたが、研究所を脱出し今に至るということでしょうか」
「じゃ、じゃあ、私が移植する以前のことは知ってるの?」
飯田が悪魔ということを忘れ、零は一縷の望みに縋って問い掛ける。ここまで調査しているのなら、自分が改造される前のことも知っているかもしれない。
「残念ながら……こちらでも色々調査しましたが、幸田様の素性は桑田様以上にわかりませんでした。確かな経歴がわかったのは、雛形様だけです」
飯田は困った表情を作っているが、無理も無い。既に抜けたとは言え、嶺は元CIAの工作員なのだから、経歴が掴めないのは当たり前だ。
「それで結局のところ、悪魔が私に何の用?」
「実は協力体制を築きたいと思いまして」
「協力体制?」
「悪魔が協力……などというのは心外でしょうね。ただ悪魔同士というのは、案外敵対関係なことも多いので、敵の悪魔をガーディアンが退治して、彼らを追い返してくれるのは歓迎なんですよ。ですので、こちらが悪魔の居場所をお教えして、幸田様が退治するという関係はいかがでしょうか?」
悪魔を探す術を失っていた零には、飯田からの提案は魅力的に思えた。だが零は警戒するように飯田の顔を見つめる。
「その代わりに、自分達の悪事を見逃せっていうこと?」
「信じて貰えないと思いますが、私は奈落からこちらに出てきた悪魔の妨害をするために出てきただけで、こちらで人類を堕落させる行為には加担しておりません。競合する相手を追い落とすための妨害に特化していますので」
「…… 信じ難い」
自分の意思を見透かそうとするかのように睨みつける零に、飯田は苦笑してしまう。
「すぐに信じて下さいというのは虫が良過ぎるでしょう。何度かこちらに通って頂き、判断して頂くというのはどうでしょうか?」
「…… う、うーん」
「それとも、今すぐ私を倒しますか?」
にっこりと微笑む飯田に、零は悩んでしまう。悪魔と名乗ったとは言え、飯田の柔らかな物腰を見る限り、悪い相手とは思えないのだ。だが悪魔という異生命体を、信じていいのか、悪魔と会話などほとんどしたことのない零は考え込む。
「退治されると判断されても構いません。私はここに居ますので、いつでもここに来て下さい。お茶ぐらいはお出ししますので」
飯田の態度に、零は闘志が全くわかなかった。決断の出ないまま、困ったようにメイドを見るが、飯田は黙ってニコニコしたままだ。聞きたいことは色々あるのだが、それを聞いてしまっては飯田から他の悪魔の退治を依頼されそうで、零は言い出せない。
「零、買い物済んだけど」
「あっ、今行きます」
嶺がアンティーク家具の向こう側から、零のことを呼ぶ。途端に呪縛から放たれたように、零が立ち上がり、釣られるように飯田も立ち上がった。
「幸田様、最後によろしいでしょうか?」
「う、うん」
「地獄から来た悪魔にはお気をつけ下さい。我々奈落から来た者とは全く別の者達ですから」
「それって……悪魔にも色々種類があるってこと?」
驚く零に対して、飯田は無言で頷く。
「零、何処にいるの?」
「す、すみません。ちょっと待って下さい」
真中の呼び声に、零は後ろ髪引かれる思いながらも、その場を立ち去る。少女の疑問は膨らむばかりだが、その日は回答を得ることは無かった。
地獄。大辞林によると、悪業をした者が死後苦報をうけると信じられている世界。キリスト教で、神と神の言葉を拒む者が落とされる最も恐るべき運命または世界。
「うーん……」
図書館の閲覧室に座っていた零はテーブルの上に置いてある辞書を前にして、唸ってしまう。
悪魔と聞いて、零は以前は地獄、もしくは似たような場所から来たのかもしれない、と漠然と思っていた。だが悪魔に対するレクチャーを受けたことのある嶺の話によれば、悪魔というのは奈落という世界から来たもので、零も素直にそれを信じた。だが飯田の話によれば、奈落とは別に地獄があるという口調だった。奈落というのが、人間が考える地獄のような場所と考えていた零は、混乱してしまった。嶺にさりげなく聞いたが、彼女が聞いた話は奈落という場所から悪魔来ているという情報を知っているだけで、そこがどんな場所かは知らず、地獄というのも一般的なことしか知らないとのことだった。
「地獄と奈落ねー」
異世界という見たことも無い場所を調べてはみたが、零には具体的なイメージが沸かない。本来ならば世界の神話などを調べるところだろうが、果たしてそこに記述されている内容が、悪魔の故郷だとは限らない。第一、地獄などは世界の神話によってまちまちなのだ。
こうなると、俄然飯田への興味が強まってくる。ガーディアンのことなど、飯田は零が知らない情報を多数持っていた。一番いいのは彼女から直接教えて貰うことだ。だが、それは零が一番取りたくない方法でもある。幾ら物腰が柔らかいとはいえ、相手は悪魔だ。
「せーんぱーい!」
「ほえっ!?」
「ああっ! 先輩って可愛いんだから、もう」
背後からいきなり抱きしめられて、零は思わず変な声を出してしまった。見なくても、相手は香奈恵だというのがわかる。
「どうしたの? 読書に来たの?」
「先輩に会いに来たんですよー。先輩、よく図書館に居るって知ってるんで」
ぎゅーっと体を抱きしめてくる香奈恵に、零は何とも反応に困ってしまう。二人も恋人が居る身としてはまずいのだろうが、少女同士のスキンシップを良く知らない零には、止めさせた方がいいのか、判断に迷うのだ。
「ところで先輩、何してたんですか?」
「ちょっと調べ物」
「ほうほう、どんなことです?」
「地獄について」
「地獄……ですか?」
零を抱きしめていた香奈恵の腕が若干緩む。零が彼女を見ると、若干驚かされたような顔をしていた。
「どうかした?」
「えっ!? あ、いや、何でも無いですよ。何でまた、そんな怖そうなことを先輩が調べてるんです?」
「え、えーっと、その……」
香奈恵の質問に、零は思わず返答に詰まってしまう。女子高生(外見はもっと幼い)が大体課題も無いのに放課後図書館で調べ物をしている自体おかしいのに、調べているのが地獄というのはもっと奇妙な話だ。咄嗟に上手い言い訳が、思い浮かばないのも無理は無い。
「じ、実は地獄の悪魔がこの世に来てるんだよ」
「えー!?」
零のもったいぶった台詞に、香奈恵は信じられないような声を出す。
「先輩、オカルトとか好きなんですか?」
「そうそう、そうなんだよ。オカルトが好きでね」
「知らなかったなー。じゃあ、心霊スポットとか行ったりするんですか?」
「い、いや、悪魔専門かな……」
「ふーん。じゃあ、黒ミサとかやるんですか?」
「えーと、退治専門だから」
「退治って……本当ですかー? こんなにちっちゃいのに?」
香奈恵は零の言葉にクスクス笑う。幼く見える零が悪魔退治をしているなどと途方も無いことを言うのだから、信じていないのかもしれない。
「別に信じてくれなくていいよ」
「ああ、ごめんなさい。別に信じていないわけじゃないんですよ」
何を言っても無駄だろうと脱力する零に、香奈恵は素直に謝る。
「それで、地獄について何が知りたいんです?」
「んー、どういう場所かなって。悪魔が住んでる場所って、想像がつかなくて」
「そうですねー」
香奈恵は零の傍から離れると図書館に並ぶ本棚へと消える。やがて美術の棚からヨーロッパ絵画の本を持って戻って来た。
「まあ、人間が考えてるのはこんな感じじゃないですかね」
「うーむ……」
荒れた大地で悪魔に虐げられている人間が描かれている絵に、零は顔を顰める。こういう絵なら、零も以前に見たことがあるような気がした。だがこういう酷い情景を見ても、人間が考えた地獄であって実際の物とは違うのかもしれない。
「香奈恵ちゃんは……地獄ってどういう場所だと思う?」
「うーん、真っ赤で角が生えた悪魔が槍持ってウロウロしてる場所とかじゃないですか?」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって……普通はそういうイメージじゃないですか?」
零が驚いたように自分を見ている様子に、香奈恵も驚いたように彼女を見てしまう。
「いや、日本人だったら、地獄っていうと鬼が罪人を苛めてるっていうイメージが思い浮かぶと思うんだけど」
「ああ。先輩が悪魔が来てるって言ったから、西洋の悪魔をイメージしたんですよ」
「そっかー」
そういえば悪魔と言い出したのは確かに自分だったと、零は納得する。奈落という場所から来た悪魔達も確かに牛や山羊のような角を生やした者が多かったと、零は思い出す。
「悪魔って角生やしたのが多いイメージだよね。赤いっていうイメージは何処から来たの?」
「ああ、あれですか。アスモデウスが赤いんで、そういうイメージがついちゃったんですよね」
香奈恵はニコニコと愛想良く答える。だがその回答が失敗だったと、ぽかんと呆けたように自分を見る零の表情によって気がついた。
「アスモデウス?」
「え、えっと、地獄の王で九層地獄を……ああもう、うっかりしすぎね」
香奈恵は弱ったように片手で顔を覆って嘆く。
「以前はこういうことは無かったのよ。油断するにも程があるわ」
「香奈恵……ちゃん?」
「先輩、地獄がどんなところか知りたいって言いましたよね」
「い、言ったけど……」
零を見つめる香奈恵の目が強い意志を見せる。それは剣呑な光を放っていた。
「地獄っていうのはダンテが言ってたように九層なんですよ。そこは人間が想像もつかないような過酷な九つの土地に、無数の罪人、それとそれを虐げる悪魔が居ます」
「何で……香奈恵ちゃんがそんなこと知ってるの?」
零の頭に飯田の警告が蘇る。地獄の悪魔に気をつけろ……と。だが目の前に居る少女には奈落の悪魔に感じるような気配が一切無かった。
「それはまあ、私が悪魔だからですよ」
香奈恵の可憐な唇から、氷のように冷酷な声の響きが漏れる。即座に零は鎧を身に纏い、椅子を蹴って立ち上がろうとした。その喉に香奈恵は一本の指で突きを入れて来る。
「がっ……」
香奈恵の指が零の喉に突き刺さった。零が咄嗟に作り出した中世の甲冑鎧の装甲に穴を空けてだ。香奈恵が指を軽く抜くと、空気が漏れて零の声が出なくなっていた。
「まあ、正しく言うと元悪魔なんですけどね」
「あ、がっ……」
「本当はもっと零先輩のことを観察してから接触しようと思ったんですが、ほら真中先輩と嶺先輩の目が厳しくて、監視ができなかったんですよ。なので、監視からこうやって直接の接触に切り替えたんです。でも接触しても、こんなに早くばらすつもりは無かったんですよ」
零の喉はひゅーひゅーと奇妙な音を発し、空気が出入りする。零は本能的に鎧で傷を塞ごうとしたが、香奈恵の指が再び突き込まれ、鎧が何の抵抗も無く破壊された。
「無駄ですよ。先輩の能力、私と相性が悪いですから」
「か、かはっ、あ……」
「それじゃ、先輩。地獄のことをたっぷりと知って貰うために、来て貰いましょうか」
香奈恵は見た目からは想像がつかない程に邪悪な笑みを、零に浮かべてみせた。