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「待てぇい!」

 深夜の繁華街。看板のネオンも大分消された路地で三人の男達は呼び止められた。だが振り返った先には何も無い。

「悪魔共、私はここだ!」

 見上げた先には巨大な者が居た。電柱の上にすくっと立ったその者は、全身を機械とも鎧ともつかぬ物に身を纏い、三人を見下ろしている。外殻は赤と白のツートーンカラーという派手な出で立ちで、特徴的なのは左右に大きく膨らんだ巨大な肩パーツだ。膝から何に使うのかわからない円柱型の突起が垂直に下に突き出ており、上腕と肩から巨大な白い杭のような物が幾つもアーマーに打ち込まれている。素顔は巨大なフルフェイスのヘルメットに包まれており、窺うことが出来ない。その外見はまるで、ロボットアニメに出てくる巨大ロボットのようだ。

「き、貴様、何者だ!」
「我が名はアーマード・フューリー。行くぞ、悪魔共!」

 叫びをあげてアーマード・フューリーが飛び降りると同時に、男達の身体が変貌を始めた。骨格が軋み、皮膚が変色すると悪魔が真の姿を現す。路上に姿を現したのは、両生類を人間の骨格に直したような二足歩行生物だった。離れた目がギョロリと鎧の戦士を睨む。

「食らえ、アーマードクラッシュ!」
「なにっ!?」

 甲冑の足にインラインスケートの如く車輪が並び、車軸が猛回転する。巨大な鎧は外見からは想像もつかないほどの急加速をして、悪魔の一体に向かって一気に間合いをつめた。反応が遅れた一体の悪魔に向かったアーマード・フューリーは右手を大きく振りかぶり、前へと突き出す。

「ぐはあああああぁっ!」

 反応が鈍く、回避をすることも出来なかった悪魔に放たれた拳は、相手を貫通して突き抜けた。悪魔の体から緑の体液が大量に飛び散るが、すぐに悪魔の体共々灰になって風に流される。

「こいつっ!」

 悪魔の一体が口から黄色い液体を巨体目掛けて吐きかける。バケツ一杯分のその液体がアーマード・フューリーの体にかかり、巨大な白い煙があがる。液体は強酸らしく、鎧の表面をシュウシュウと溶かしていく。

「くくく……なにっ!?」
「アーマード……」

 強酸を浴びたことを意に介さず、アーマード・フューリーの身体が動いた。片足の膝から伸びた一本のスパイクが地を穿ち、それを中心にモーターで巨体がグルグルと急回転する。

「裏拳!」
「の……っ!」

 突き出された右手の甲が悪魔の頭に当たり、猛烈な力で相手の首ごと頭部を吹き飛ばした。首を失った体はよろよろとしながらもしばし立っていたが、数秒で塵へと変わって風に流されていった。

「最後!」

 未だ浴びた酸によって煙をあげているアーマード・フューリーが、回転運動に急速な制動をかける。だが最後の一体は既に何処かへ消えていた。巨鎧が地を蹴って飛び、手近な建物の上を目指す。ビルの屋上に着地すると、屋根と屋根を跳びながら逃げる最後の一体がアーマード・フューリーには見えた。

「アーマードジャンプ!」

 大きく屈んだアーマード・フューリーが、両足で地面を蹴って天空高く跳躍した。その反動で、コンクリートの床に巨大な亀裂が蜘蛛の巣状に広がる。銀色に輝く月を背にして一回転すると、鎧の戦士は急降下した。

「ハイパーデストラクションキッッッック!」

 上空から落下した勢いを利用した蹴りは、狙い違わず最後の一体を捉えた。

「ぎえええええっ!」

 背骨を貫通し、体ごと真っ二つにされた悪魔は、倒れると同時に塵となって崩れ去った。コンクリートのタイル上を滑り、アーマード・フューリーが制動をかける。背後へと振り向いた鎧の戦士は、塵の山が風に流されるのを見届けると、再び跳躍してその場を去った。その巨体がビルの屋上を飛び離れて彼方へと消えていく。
 後には何も残らない。ただ月だけが何があったのかを見ていた。





「よっと……」

 芝生を蹴って飛び上がると、アーマード・フューリーは建物の窓枠に飛び乗る。鎧が侵入しようとしているのは巨大な洋館、女子校の寮だった。窓の桟に足をかけると同時に、鎧がボロボロと零れ落ちる。剥がれ落ちた鎧は落下していく途中で分解され、後には何も残らない。甲冑の中から現れた少女が床に足をつける頃には、鎧は跡形も無かった。

「ふう、今日も何とか上手く行った」

 少女はルームメイトがベッドでスヤスヤと寝ているのを確認すると、ベッドの中に放り込んで置いたパジャマを持って洗面所へと向かった。そして寝巻きに着替えると、自分用であるベッドの中へと潜りこむ。

「お休み」

 小声で呟くと彼女は眠りの中へと落ちて行った。
 彼女の名は幸田零、鎧を司る者。






 幸田零の過ごしてきた人生はまだ短い。そもそも彼女の記憶が始まったのは、つい先日のことだ。

「うわあああっ!」

 零が目を覚ましたのは、とある病院だった。
 ベッドの上で零は荒く息をつき、片手で顔を覆う。やがて呼吸が落ち着くと、零は全身がびっしょりと濡れているのに気付く。衣服を摘んで軽くバタバタと空気を送りつつ、零は白い病室の中を見回す。個室の病室は静寂に包まれており、他に誰も居なかった。零は自分が何故ここに居るか、はっきりしない頭でぼんやりと考える。

「あれ?」

 思い出そうとして気付く。何も覚えていないのだ。

「え、えっ、あれ?」

 記憶がさっぱり無い。何を思い出そうとしても、何一つ光景が浮かんで来ない。記憶の中は何も書かれていない真っ白なノートのようだ。

「お、俺は……」

 ただ真っ白なノートにも、僅かな文字が数行書き込まれていた。それは……、

「お、俺の名前は……幸田……幸田……0、ゼロ、零」

 彼女が覚えて居たのは苗字と、奇妙な名前だけだった。幸田は明らかに自分の苗字と思えるが、零と言う名はおかしいと言える。ただ、自分が零と呼ばれていたような気もするのだ。

「ん?」

 零は何かに気がついて、自分の体をペタペタと撫でる。何かがおかしい。体の調子はもちろん悪く無いのに、奇妙な違和感がある。

「あ、あれ……?」

 自分の股間をさすって何かを探し、それが無いとわかると自分の全身を見回す。零の脳内にある記憶のノートには、名前の他にもう一つ付け加えられていることがある。

「な、何で? うわあああああああああぁっ!?」

 零が病院全体に響き渡る声で絶叫する。
 名前は幸田零、性別は男。零の記憶では、そういうはずだった。





「ど、どうしてなのか、何が起こってるのかさっぱりわかりません……」

 零がガクガクと震えながら言う台詞に、刑事二人は顔を見合わせる。
 零が目を覚ました数時間後、病室内で彼女は尋問を受けていた。事情聴取ということらしい。病院の医師や刑事から零が聞かされた話はこうだ。昨日、零はとある学校の敷地内にて全裸で倒れていたらしい。体に泥がついていたが、外傷は山中をさ迷ったと思われるときに出来たかすり傷のみ。暴行を受けた可能性もあったが、医師の検査ではその様子は無かった。泥の付着と近辺の枝葉が折れている道筋から、学校の裏山に広がる山中から来たのはわかるが、一体何が零の身に起きたのかは謎だった。
 刑事達は事件に巻き込まれたと見て、零が意識を取り戻すのを待っていたのだが、肝心の零は記憶喪失になっていた。

「もう一度聞くよ。君は以前の記憶が無いと……それに男だったと……」

 中年に見える刑事の言葉に、零はコクコクと頷く。目を覚ましてから自分は男のはずだと零は錯乱した。暴れたりはしないが、極めて不安定な零の精神状態に、精神科医が彼女の話を聞くことになった。医師の下した判断は記憶喪失と性同一障害。元から性同一障害だったのが、記憶の喪失で自分が本来は男だったと認識されたとの判断が下された。

「しかし、お医者さんは君が正真正銘の女の子だと言っている。君も自分の体を確認したんだろう?」

 若い刑事の言葉に零は黙りこくってしまう。零の体は背が低く、手足はかなり細く、胸はほんのわずか膨らんでいる。体つきは小学生、または発達の遅れた中学生の女子のものだ。もちろん男性器では無く、女性器がついている。裸の彼女を見れば、女の子かを疑う者は居ないだろう。

「でも……本当なんです……男なんです……」

 理論的におかしい説明だが、それでも零は小声で訴えかける。だが自分が出した声がソプラノの可愛い声なので、零はますます立場が無くなっているのを認識した。自分では声に違和感があるのだが、他人には可愛らしい容姿の所為で全くの説得力が無い。

「弱ったな……記憶が無いのでは仕方が無い。とりあえず、行方不明の捜索届けを探すから、待っていてくれ」
「はい、お願いします」

 これ以上は収穫無しと見たか、中年の刑事が早々に尋問を切り上げる。それに精神的に大分弱っている、か弱い少女にストレスを与えてはいけないと思ったのもあった。零は美少女と断言出来る容姿だ。

「じゃあ、連絡を待っていてね。当分はここで休んでていいから」
「ありがとうございます」

 零がペコリと頭を下げると、刑事達は優しい笑顔を残して部屋を出て行った。一人きりでポツンとしている部屋で、零はベッドデスクに置いてある手鏡を手に取った。医師の一人が零のために持ってきたものだ。
 鏡の中では不安そうな顔をした少女が零を見返している。目端が垂れていて、幼さが強く残る顔は、非常に愛くるしい。こんな少女が妹なら、何でも言うことを聞いちゃいそうなほど可愛い。もし二人っきりなら、ロリコンじゃなくても、エッチなイタズラを……。

「だーーーーっ、お、俺は何を考えているんだ!?」

 危うい方向に思考が行きそうになるのを、零は必死に捻じ曲げた。自分が欲情した相手は、自分自身なのだ。それは人として、明らかにおかしい。

「な、ナルシストじゃないんだからー」

 大きく手をベッドに叩きつけて、零は苦悩する。だが、小さな手をジタバタさせ、可愛い声を出して悩む姿は、微笑ましく見えるだけだ。

「ほ、本当にどうしよう……」

 ベッドに潜り込み、蒲団を被る零は夢であることを願った。だが零の体は眠気を帯びず、現在の状況が現実というのを、ますます認識させられるのだった。





 それから数日は苦労の連続だった。女子便所にどうしても入れず、コソコソと男子便所に入って看護婦に注意されたり、体に不慣れな所為なのかしょっちゅう転びそうになったり、女子特有の柔らかさがある自分の体をタオルで拭くのに戸惑ったりした。
 一番、零が参ったのは下着だ。ショーツとブラジャーを渡されたとき、零は何とも言い難い気分に襲われた。多分、今の自分が完全に女だと最認識させられたためだろう。零は二日の間で何度ため息をついたかわからない。
 困ったことは続くもので、零の身柄はさっぱりわからなかった。行方不明のリストには載っておらず、近隣の小学校、中学校にも零の在籍は確認できなかったらしい。数日間の入院は問題無いのだが、今後どうやっていくのかを考えていくと、大分不安ではあった。
 零が目を覚ましてから四日経ったとき、再び担当の刑事が彼女の前に現れた。

「調子はどうだね、幸田君?」
「体調の方は何とも無いんですが……まだ、何も見つかってませんか?」

 縋るような目つきをする零に、刑事達は困ったように頭を掻く。愛らしい美少女だから、尚更のこと返答しづらいようだ。

「残念だが、まだ身元はわかっていない。色々と調べているんだが」
「そうですか……」
「まあ、悪い知らせばかりじゃないぞ。君の引き取り手が現れた」
「本当ですか?」

 病院暮らしが半ば苦痛になっていた零には、これは朗報であった。他人の世話になるのは何となく申し訳が無いが、退院して生活できるのならば、話に乗らない手は無い。

「うむ。聖真学園って聞いたことはあるかい?」
「聖真学園って、あの有名なお嬢様学校ですよね」

 零の記憶が間違いなければ、聖真学園は設立十年も経たないが、そのハイレベルな教育で知られるお嬢様養成学校だ。そこまで思い出して、零はふと考える。自己に関する記憶のほとんどは飛んでいるのに、何故かこの社会知識……いや、聖真学園に限らず、社会に対する一般常識などはちゃんと覚えているのだ。

「そうだ。市の福祉課に連絡があってね。君を是非引き取りたいと言ってきた」
「聖真学園……が、ですか?」

 まさか学校が自分を引き取りたいと言ってくるとは、零は思ってもいなかった。てっきり、善意で誰か個人が名乗りをあげてくれたと思っていたのだが。

「あそこは寮があるし、幼稚舎から大学まである。記憶が戻るまで、勉強させて貰えばいい」
「ありがとうございます」
「礼なら、学校の理事長に言えばいい。何にしろ、しばらくの間はこれで大丈夫だ。記憶が戻るのを心待ちにしてるよ」
「はい」

 にっこりと柔和に笑う零に、刑事達の頬もほころぶ。記憶も無く、自分の性別でさえ混乱している彼女だが、その素直さは良いものだった。別れを告げて、二人の刑事達は病室から出て行く。

「いい子ですね。早いところ記憶も戻ればいいんですが……」
「そうだな。だが、何にせよ、引き取り手が見つかって良かった」
「ですね」
「ああ、うちの娘は何であんな素直な子に育たなかったんだろうな……」

 最近、下着は別に洗って欲しいと言い出した娘のことを思い出して、年配の刑事が肩を落す。

「元気出して下さいよ。思春期だから、仕方ないですよ」

 若い部下に励まされながら、子供がいる刑事はとぼとぼと病院の廊下を歩いていった。






 そして、現在。

「ほら、零。朝だよ、朝」
「んー?」

 ルームメイトの嶺に揺り起こされて、零が寝惚けた声を出す。零がぼんやりと辺りを見回すと、確かに窓の外から入り込んだ日の光が室内に当たっていた。

「起きないと遅刻しちゃうよ。ほら、立って立って」
「ん……」
「着替えさせてあげるから」

 寝惚け眼になりながら、零が立ち上がると嶺がパジャマのボタンに手をかけ始める。ぼんやりとされるがままにされていた零だが、嶺の指が三つ目のボタンを外したときに、意識が急速に覚醒した。

「み、み、嶺先輩!」
「どうしたの?」
「服は自分で着替えるって言ったじゃないですか!」
「あ、覚えてたの? それは残念」

 胸を腕でガードして抗議する零に、嶺はぺロリと舌を出した。
 桑田嶺は零のルームメイトで高校二年生だ。長い黒髪の美少女で、顔立ちは多少きつめだが、零の前では表情が柔らかいので親しみやすい雰囲気がある。記憶喪失なうえに、女性ということに戸惑いがある零を、優しくサポートしてくれるので零は絶大な信頼をこのルームメイトに寄せている。だが問題が一つあるとすれば、

「嶺先輩、後ろ向いていてくれませんか?」
「はいはい、了解」

 零の言葉に嶺はクルリと背を向ける。その間に零は嶺が用意してくれた自分の制服に、そそくさと着替える。
 零が唯一つ気にかかるのは、嶺の過剰なスキンシップだった。会った当初は余所余所しかった嶺だったが、あるときを境にして急速に零を可愛がり始めた。女子校の学園生活に戸惑う零を丁寧に指導して、嶺は彼女の日常生活をある程度は快適に変えてくれた。制服しか持っていなかった零をショッピングに連れ出し、女性らしく体裁を整えたりもしている。おかげで零は日常におけるストレスを大いに緩和できた。
 だが、それらと引き換えに嶺がベタベタしてくるのには、零はかなり戸惑った。最初は女性同士のスキンシップとしては当たり前なのかと思ったが、すぐにおかしいと零は気付いた。体に軽く抱きつくのはまだしも、頬にキスする、胸を軽く触るのは幾ら何でもおかしい。着替えをじっと見つめられ、一緒に狭いユニットバスに入浴しようとするに至って、零は嶺の異常な性癖に気付いたのだ。

「先輩、いいですよ」
「はいはーい……ん、今日も制服がバッチリ似会ってるわよ」

 嶺が零のブレザーの襟を正すが、これについては零も何も言わない。身だしなみを整え終わって微笑む嶺に、零も笑顔を返すのみだ。
 零も大分迷ったが、結局は嶺からの過剰なスキンシップを止めて貰うよう頼んだ。嶺はかなり不満だったみたいだが、零は自分がどれだけ彼女のことを信頼しているかを伝えると、かなり満足したらしい。零が提示した要求を、嶺は幾つか受け入れてくれた。

「それじゃ、顔と歯磨きしたら、食堂行きましょう。あんまりのんびりしてると、遅刻しちゃうぞ」
「わかりました。嶺先輩、五分だけ待って下さい」

 トテトテと洗面所に向かう零の後ろ姿を、嶺は楽しそうに眺める。禁止事項を決めて、ある程度の距離を取るようになってから、零と嶺はより親密になったように思えた。安心できるスタンスがあるので、零も嶺へと更に心を許すようになり、嶺もそれがとても嬉しかった。
 ふと嶺は零に好意を持つようになった出来事を思い返す。
 ある時、酷い風邪が流行り、嶺もこれにかかってしまった。生まれつき身体が頑丈で、風邪など滅多にひいたことが無いだけに、その反動でかなり酷い症状が出た。高熱にうなされ、酷い腹痛と頭痛、下痢、嘔吐などと、ありとあらゆる症状が出たが、それを零が必死に看護してくれたのだ。徹夜で冷えたタオルを替え、苦しむ嶺の傍に居てくれたのが、彼女には堪らなく嬉しかった。

「嶺先輩、お待たせ。ご飯食べに行きましょう」
「はいはい。それじゃ、レッツゴー」

 洗面所から出てきた零の背を押し、嶺は楽しそうに彼女と部屋を出た。





 零の学園生活は全くと言っていいほど、順調では無かった。
 聖真学園に引き取られたのは良いが、零は自分の年齢を覚えていなかった。仕方ないので学校側は学力テストによって、彼女の学年を決めようとした。小学生高学年くらいだと学校側は見積もっていたのだが、驚くべきことに零は高校レベルの問題をもスラスラと解いてみせた。流石に大学は専攻があるので、問題は出さなかったが、ここまで学力が高いとは予想外だった。運動テストでも常人ばなれした運動能力を見せる零に、学園側は困ってしまった。幾ら成績が優秀でも、外見は小学生にしか見えないのだ。とりあえず妥協案として、零は高校一年に編入されることとなった。
 しかし、困ったのは零である。外見は小学生なので、同級生は彼女のことは幼女扱いなのだ。そのため、友達らしき友達もなかなかに出来ない。おまけに心は男なのだ。姦しい女子高生に囲まれての生活に、すっかり参ってしまった。

「うう、疲れたー」

 零はげんなりとした声を出しつつ、廊下の壁に手をつく。午前中の授業が終わり、待ち望んだ昼休みに零はようやく開放された気分だ。女性らしい言葉遣い、仕草などと零は常に注意を払わなければならない。一度股を開いて椅子に座っていたら、かなり注目を浴びてしまった。そのため、ボロを出さないように零は必死なのだ。

「引き取ってもらってなんだけど、女子校っていうのはしんどいなー」

 零は大きく息を吸って吐き出す。今日も体育の授業でうっかりあぐらをかいて座ってしまい、慌てて座禅だと言い張ったように、零は気苦労が絶えない。おまけに聖真学園は生粋のお嬢様学校なので、下手な冗談は通じない。常に清楚な女性を演じるのは、零にとってかなり苦痛だった。

「さてと、食堂に行かないと……ん?」

 気を取り直して歩き始めた零の前に、見知った女性が歩み寄ってくる。

「零、こんにちは」
「あ、真中先輩。こんにちは」

 零は目の前に居る女性に向かって、ペコリと頭を下げる。
 雛形真中は零より一つ学年が上の高校二年生で、嶺と同学年だ。すらりと伸びた体は、比較的高く、モデルのような体型だ。青っぽいロングヘアーは腰まで伸びていて、柔らかな表情が特徴と言える。その顔は、今も零に向かって優しく微笑んでいる。その端正な顔立ちは、学園でも一、二を争うと言われる美少女だと、零は見ていた。

「お弁当を一緒にって思ったのだけど、今日は一緒に食べてくれるかしら?」
「いいですよ。その代わり、購買に寄って下さい」

 零は、自分よりずっと身長の高い真中と並ぶと、一緒に歩き出す。真中は嬉しそうに零についていく。
 零と真中が出会ったのは、零が転校してきてすぐだった。最初は校庭のベンチで、一人でぽつんと本を読んでいる真中を零が見かけた。二度、三度と一人でいた彼女を見た零は、普通に声をかけて話そうとした。自分も孤独なので、何か期するものがあったのかもしれない。
 見知らぬ後輩に話し掛けられて当初は少し戸惑っていた真中だが、徐々に楽しそうに零の会話に付き合ってくれるようになった。零は二、三回ほど真中を見かける度に世間話をしたのだが、いつの間にか真中の方が零に懐くようになっていた。こうやって昼食を一緒に食べようと誘いに来ることもあるし、放課後にお喋りして過ごすこともある。

「零、今日は何だか疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。いつものことだし」
「……やっぱり、まだ学園生活に慣れない?」
「うん。お嬢様学校って、肩こるんだよね」

 腕を回してから、零は大げさに首を左右にコキコキと鳴らす。その仕草が可笑しく、真中は思わず笑ってしまう。零としてはオッサンくさい動きをしたつもりだが、彼女がやると可愛いらしい動きにしか見えない。

「無理はしないでね、零。いつでも相談に乗ってあげるから」
「うん、ありがとう先輩」

 優しく首筋を撫でてくる真中に、零は微笑んで見せる。零はこういう真中の優しさに好意を抱いていたし、真中はこんな可愛らしい後輩を愛しいと思っていた。
 真中がポロリといつだったか零にこぼしたのだが、彼女は他に友達が居ないらしい。つい最近まで病気がちで、学校にほとんど通えなかったのが原因だと言う。改めて友人を作るのも大変で、どうすればいいのか真中は困っていた。そこで零が優しく声をかけてくれたので、嬉しかったという。真中は孤独がかなり辛かったと、零に告白していた。
 二人は購買や学食がある食堂へと向かった。聖真学園はカフェテラスのような雰囲気の大きな食堂があり、中高生が共用していた。椅子やテーブルの多く用意された白いホールは、生徒達に大事に使われており、優雅という印象さえする。
 零は慣れた様子で購買へと向かい、サンドイッチやパンをそれぞれ購入する。そして空いている二人席に座り、零と真中は向かいあった。

「……零はまたカツサンド?」
「うん、好物なんだよね」

 パッケージを開けると、零は大きく口を開けてカツサンドを食べようとする。だが小さな口はさしたる量を齧ることが出来ない。モソモソと食べ続ける零なのだが、どうも少女の口に違和感を覚えてしまう。記憶が無いとはいえ、どうも自分の体に慣れないのだ。

「私はあまり油っこいものは食べられないわ」
「うーん、私も食べた後は胃もたれするかも」
「それでも食べるの!?」
「好物なんで、止められないんですよね」

 サンドイッチを半分食べたところで、零は早くも胃が一杯になってくる。零もとっくに気付いてはいるのだが、どうも自分は胃の容量が小さいらしい。それでも、まだ焼きそばパンも残っているのだ。カツサンドだけで満腹になるのを知っているのに、買い過ぎてしまう癖が治らない。まだ零は少女の体に慣れていない。

「零、ソースが唇についているわよ」
「え、本当ですか?」

 急いで口を拭こうとするが、ポケットティッシュを持っていないことを零は思い出す。真中から借りようと思ったのだが、言葉を口に出す前に彼女の人差し指が零の唇を拭った。そして、真中は……ぺロリとその指を舐めた。

「せ、せ、せ、先輩?」

 真中の思っても居なかった行動に、零は慌てた声を出す。

「あ……ご、ごめんなさい。つい……」

 自分が取った行動に、真中は顔を赤らめる。これではまるで恋人同士だ。真中につられて零も頬が赤くなるのが自分でわかる。妙な雰囲気に気まずくなって、二人の会話が途絶えてしまう。流石に、この状況はマズイと思って、零がフォローしようとする。

「せ、先輩って、その……お、お母さんみたいですよね」
「お母さん? あ、うん、そうかもしれないわね」

 零の意見に、真中は戸惑ったように彼女から目を逸らす。母親という表現は、外見が多少大人びている真中にとっては、堪えたのかもしれない。

「零が可愛いから、可愛がってあげたくなっちゃったみたい」
「あ、ありがとうございます」

 どうも零がしたフォローは失敗だったらしい。零も可愛らしいと返されて、どうもこそばゆい。それからしばらくの間、二人は照れくさくて無言のままだった。






「さてと、何かあるかな?」

 授業が終わり、零にとってようやく放課後になった。正直に言えば、学校の授業は零が知っていることが多く、退屈だ。小学生、またはサバを読んでも中学生程度が限界の容姿なのに、零は何故だか学業の知識は豊富なのだ。
 零は図書室でテーブルの一角に座り、新聞を広げる。何か事件が無いか調べるためだ。
 転校して間も無くの頃は零にとっては苦痛の日々だった。花も恥らう女子高生と一緒に体育のために着替えをし、尿意などを感じれば女子トイレに入らなければいけなかったのだ。男としては本当なら嬉しいシチュエーションなのだろうが、零としては非常に罪悪感があった。本来なら目と耳を塞ぎたいところだ。
 それに女の体にも酷い違和感があった。ちんまりとした手足に、柔らかな体。風呂に入って自分の体を洗っているときには、まるで自分の身体が自分のものではないような気がしてならない。日常生活でも仕草に気をつけねばならず、身も心も疲れ果ててしまった。嶺と真中が居なければ、今頃はストレスで病気になって再び入院していたかもしれない。
 そんな零が自分の能力について気がついたのは、ごく最近のことだった。支給されている生活費でノートや筆記用具を買うために、街へと出たときのことだ。すれ違った男性のグループに酷く違和感を覚えたのだ。相手が人間ではないという違和感。最初は自分の感覚がおかしいと零は思った。人の姿をしている者が、人以外であるなどというのは、有り得ない。だが本能は強烈な叫びをあげ、相手のことを警告したのだ。あまりにもきつい感覚に耐え切れなくなり、零はフラフラとその男達の後をついて行った。
 零は自分としては注意していたつもりだが、人気の無い路地に誘い込まれたときに、初めて尾行がバレていたのに気付いた。いかつい男にゆっくりと囲まれて、絶体絶命の状況に追いやられてしまう。頭の中で例の警告音がうるさいほどに鳴り響き、心臓がバクバクと音を立てる。男の一人に後をつけた理由を問われつつ、髪を掴まれたときに……零が持つ第二の能力が発動した。
 全身が装甲に覆われ、男の手を弾き飛ばした。気がつくと零は全身を西洋甲冑に包まれていた。呆然とする零の前で、驚く男達が姿を変えた。翼を持ち、鳥のような異形に変化した相手を見ても、零は驚いたが恐れは抱かなかった。零が持つ第一の能力、悪魔を判別する力が相手を倒せと囁きかけ、彼女もそれが自分の使命だと悟ったからだ。
 初めての戦いは無我夢中のうちに終わった。襲ってくる悪魔達を殴りつけ、体を掴んで建物の壁に叩きつけ、思いっきり蹴り倒した。半数を塵に変え、半数にケガを負わせたところで相手は逃げ出した。そして零は自分の秘められた力を認識し、漠然とだが自分の力を世のために使おうと誓ったのだ。
 それからは近隣の街をパトロールし、新聞の記事やインターネットで情報を集め、悪魔と戦っている。少女の体に閉じ込められた零の魂にとって、この戦いだけが唯一の慰めになった。

「……またこれか」

 零の目が一つの記事に吸い寄せられる。それは都内で起きている連続バラバラ殺人事件についてだった。この事件は既にこれで三件目になっており、被害者達は路上や建物の屋上で一様に体を切断されているのだ。近所のコンビ二で買った週刊誌によれば、被害者は肉体を細かく切断されており、文字通り肉片になっているという。骨までも細かいピースになっているため、被害者の身元がなかなか判明せず、捜査は難航しているそうだ。
 零はこの事件を悪魔によるものだと見ていた。そのため事件の手掛かりになるような情報は必ず収集している。零は新聞の記事をコピーするために、コピー機へと新聞を持っていった。






「ただいまー」

 零が可愛らしい声で自室の中へと呼び掛ける。だが返事は無かった。

「何だ、嶺先輩は留守かー」

 挨拶して損したと思いつつ、零は鞄を床に置くとベッドの上へと飛び込んだ。嶺と真中とも一緒に居ないとなると、彼女は基本的に暇である。記憶喪失の零には趣味が無く、勉強を特にする必要も無い。そうなると放課後はゴロゴロして過ごすだけだ。視聴覚室にあるパソコンでインターネットしてもいいのだが、今更校舎へと戻るのも正直に言えば面倒臭かった。コピーをとってきた連続バラバラ殺人事件の記事をスクラップに綴じると、もうすることが何も無い。スクラップブックを眺めてもいずれも何度も読んだ記事ばかりで、今更何かに気付くことも無かった。

「………」

 蒲団の上でしばらく転がっていた零だが、むくりと身を起こすと、扉に歩いてカギをガチャリと閉めた。そして勉強机の上に置いてある鏡を手に取る。鏡をベッドの上に置くと、零は壁に持たれかかって座り込んだ。

「自分の顔じゃ無いよな」

 鏡に映る自分の顔を見て、零は自嘲する。鏡の中では愛くるしい顔をした少女が、苦笑していた。抱き締めてあげたくなるような美少女の姿は、零にはとても自分のものとは思えない。だが零が自分の頬に手を当てると、鏡に映る少女も自分の頬に手を当てた。

「……んっ」

 零はそっと片手を自分の胸に手を当てた。上着と下着越しに触ると、かろうじて膨らんでいるとわかる僅かな膨らみの感触がする。だが軽く触るだけで零の体はビクビクと震えてしまう。胸の先に微弱な電流を流されているような感触がするのだ。

「……はぁはぁ」

 二、三分もすると零の息が荒くなっていく。彼女の体は異常に敏感で、ちょっとした愛撫だけで、異様な興奮を覚えるのだ。ちらりと零が鏡を覗くと、まだ幼い少女が荒く息をつきながら胸を揉む姿が見えた。小学生くらいの美少女が見せる痴態に、零の心臓がドクンと大きく脈打つ。

「パンツ脱がないと……」

 スカートを捲り上げ、コットンのパンツを脱ぐと、零はベッド上へと投げ捨てる。嶺が可愛らしい下着も買ってくれたのだが、零は履き心地のいい無地の白いショーツを愛用していた。鏡面を零が覗き込むと、無毛の股間に縦スジが見える。イヤラシイ姿で自分を見つめ返す少女に、零の頭が真っ白になった。

「う、ああっ!」

 股間に指を当てると、零は軽い叫び声をあげてしまう。その細い指がぷっくりと膨らんだクリトリスを押し潰している。

「あ、あ、あ、ああっ!」

 グイグイと突起に当てた指に力を入れる度に、零は必死に声を漏らすまいと我慢する。強烈すぎる刺激を感じると共に、大声を出すまいと我慢しなければならないのに、指が止まらない。鏡に映る自分の扇情的な姿に、興奮しきっているからだ。

「ふあ、あ、あああぁん! やっ、やっ、だめぇ!」

 指を割れ目の中に入れて刺激する度に、自分が幼女にイタズラしているような錯覚を覚えて、身体が勝手に動いてしまう。更に零は自分が出している可愛らしい声に、狂おしい程に頭が熱くなっていく。

「は、あ、あ、ああっ、指、指が……」

 自分で自分の体に欲情している。この異常なシチュエーションに、零の体は恐ろしいほど興奮してしまう。弄っているのは自分の体なのに、鏡に映るのは自分ではない知らない幼女のように錯覚するのだ。

「うあ、あ、ああっ……ひぐ、やっ、あ、あ……」

 必死に声を押し殺そうとするが、零は声が漏れるのを押さえられない。声が出ないようにするために何か無いかと、欲情に満たされた頭が考えたとき、自然に手が動いていた。零は自分のスカートをたくしあげて、口で思いっきり咥えた。

「ん、ん、んんーーーーーっ!」

 口に布を咥えたことで、零は思いっきり歯を食いしばることが出来た。だがスカートを自分の口で捲り上げ、ヴァギナを弄る姿は扇情的すぎる。零は鏡に映るその姿に、身体が震えるほど胸の鼓動が早くなっていく。

「う、う、う、んん、ん、んんんんんーーーーっ!」

 女陰の突起を指で押し潰すたびに、全身が硬直するほどの衝撃が零に奔る。既に溢れた愛液は、彼女の小さな尻の谷間をべっちょりと濡らしていた。

「あ、う、うううううっ、うー!」

 もう零は何も考えられない。ひたすら鏡の中にいる少女の痴態を堪能して、クリトリスの刺激を貪り続ける。眩いほどの性感に、零の意識が飛んだ。

「ん、ん、んん……あ、ああああっ、イッちゃうー!」

 零の身体が大きく反り返る。硬直した彼女の幼い肢体が、何度もビクッビクッと震えてしまう。エクスタシーの強烈な快感に、零の意識が弾け飛ぶ。断続的に襲い来る絶頂感に、意識が飛んでは引き戻されるのを繰り返す。

「はぁはぁ」

 三分近くぐったりとしていた零だが、目を開けると荒く息をついた。僅かの間だが、彼女は意識を失っていたのだ。零にとって、エクスタシーは刺激が強すぎる。記憶が定かではないが、男が感じる絶頂感と女とでは比べ物にならない差があるような気が、零にはした。凄まじいと形容するに相応しい自慰の快楽に、零は全身を汗に濡らして、しばらくは動くこともままならない程の倦怠感に襲われていた。

「……はぁ」

 一回のオナニーによるエネルギーの消費は途方もなく大きいのだが、幸いなことに零の回復力も非常に早かった。零の体は常人より、遥かに頑丈のようなのだ。だが体の回復は早くとも、零の心は疲労していた。

「何やってるんだろう、俺」

 オナニーを終えた後、零はいつも自分への嫌悪感を覚えてしまう。記憶喪失で自分を男と思っている零には、自分の体は別人のものだと感じている。だが幾ら体と意識が乖離していても、自らの体に欲情して自慰するのは最悪だった。酷い罪の意識を覚えながら、零はヨロヨロと立ち上がる。

「シャワーでも浴びよう」

 零の全身は汗でぐっしょりだった。普通に自分を慰めるならともかく、鏡で少女の姿を見ながらするのは非常に馬鹿らしい。だがこの興奮に病みつきになって、零は止められないでいた。終わった後はいつも虚しいので、二度としないと何度も心の中では思うのだが、中毒のように止められない。零が女の体に思い悩む理由の一つだった。
 自室にあるシャワーを使おうと、零が洗面所に続くドアの前に立ったとき、いきなり扉が中から開いた。

「うわあっ!」
「きゃっ!」

 中から出てきた嶺に、零は仰天する。よもやルームメイトが自室に居るとは思わなかったのだ。

「み、み、嶺先輩居たの?」
「う、うん。ちょっとお腹の調子が悪くて、ずっとトイレに篭っていたんだけど……」

 わたわたと慌てる零に、嶺はキョトンとしながら答えた。トイレとシャワーは洗面所を挟んで向かい側にある。嶺がトイレを使っていたのなら、出てくるのは何ら不思議ではない。

「零が帰ってきてたなんて、知らなかったわ」
「そ、そう……それなら良かった」
「へ?」
「あ、いや、何でもないよ。あはは……」

 うっかりと安堵の言葉が出てしまった零は、慌ててそれを打ち消す。

「先輩、お腹痛いの?」
「ううん、ちょっと腸の調子が悪かっただけ。心配しないで」

 にっこりと笑いかける嶺に、零は微かにほっとした。確かに肌の艶も顔色も良く、表面上は嶺も健康そのものに見える。

「ちょっとシャワー浴びるね。いいかな?」
「どうぞどうぞ」

 嶺とすれ違い、零は慌てて洗面所のドアを閉める。女性は日に何度シャワーを浴びても、不自然ではないのは、零にとってはありがたかった。洗面所の鏡をあまり見ないように零は制服を脱いでいく。また自分の姿を見て、欲情したのでは元も子も無い。全裸になると、零はそそくさと浴室へと入っていった。
 洗面所に入っていく零を見送った嶺は、無言で零のベッドへと近づく。彼女はぐっしょりと濡れて、脱ぎ捨てられたショーツをそっと拾いあげた。






「嶺先輩、あれくれませんか?」
「はいはい、ちょっと待ってね」

 机の前でパラパラと雑誌を捲っていた嶺は、零の言葉に机の下へと潜る。小型冷蔵庫を開けると、牛乳のパックを彼女は取り出した。寮の個室には本来なら冷蔵庫は設置されていない。だが特に禁止事項にもなっていないので、嶺は買ったジュースやお茶を冷やすために冷蔵庫を持ち込んでいた。ポットやパソコンを部屋に置いてある女生徒も居ると、零は聞いている。
 普段は洗面所に置いてあるコップを零が差し出すと、嶺が受け取って牛乳を注ぐ。そして何か白い粉を流し込んで、スプーンでグルグルと混ぜた。

「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 零はコップを受け取ると、にこにことしながら牛乳を飲み始める。両手でコップを持って小さな口で液体を飲み干す彼女の仕草は、何とも愛らしい。

「それにしても……もう寝ちゃうの?」
「うん。やっぱりたっぷり寝ないと、調子が出なくて」

 時計を一瞥した嶺の言葉に、一旦コップから口を離した零が微笑む。時刻はまだ午後八時。零は夜間のパトロールに出掛けるため、夕食後にはすぐに仮眠を取ることにしていた。本来ならまだ全然眠気が無いのだが、嶺がくれる牛乳を飲むと不思議とぐっすり眠れるのだ。嶺曰く、まだ小さい零が良く寝て大きくなるための、おまじないということらしい。

「ご馳走様です……ふわぁ」
「はいはい、お休みなさい」

 急速に眠気が出てきた零に、嶺はにっこりと笑いかける。ふにゃーと力が抜けていく零の手からコップを取って机に置くと、その体を支えてベッドへと連れて行った。蒲団に潜った途端、零の意識は闇に沈んだ。
 それから四時間後、零の意識がパッチリと覚醒した。睡眠時間は短かったが、眠気も無く、体の調子も良いようだ。先ほど飲んだ牛乳のおかげだと、零は思っている。零は布団の中から抜け出すと、寝巻きを脱いでベッドの中へと放り込んで軽い膨らみを作る。自分が寝ていると偽装するためだ。幸いなことに嶺は夜更かしせずに、いつも夜半には就寝してくれている。動きやすいトレーナーの上下に身を包むと、零は窓のロックを外して開けた。音も無く窓の外へと身を翻した零は、窓の桟に片手をかけて、両開きの窓を器用に閉めていく。窓が閉まったのを確認すると、零は寮の壁を蹴って空中へと飛ぶ。芝生の上へと着地した零の姿は、既に巨大な威容を誇る赤と白の鎧に身を包まれている。零がアーマード・フューリーと名付けた、自分の能力でカスタムした鎧の形態だ。地を蹴り、紅白に彩られた鎧が空高く跳躍した。
 零が巡回するのは、主に学校近くの繁華街だ。時たま遠くへと足を伸ばすが、それでも都内の一部へと行くのが精一杯だ。移動手段が建物の屋上を跳躍するのと、足底につけられたローラーによる走行しかないためだ。ローラーによるダッシュはかなり速度が出るのだが、あまり目立つのは零にとって本意ではない。存在がバレると大騒ぎになりかねないのを、彼女も知っている。それに不思議なことだが、学校近くにかなり悪魔の存在が確認されているのだ。そんなに人間社会に悪魔が紛れ込んでいるのかと零は危惧したが、捕まえた悪魔の話ではそうでも無いらしい。悪魔にとって、何らかの需要がこの地にあるようだった。
 繁華街の一角にある雑居ビルの屋上へと、隣のビルから零は飛び降りる。そしてそっと眼下を見下ろす。こうやって何となく眺めているだけで、零は悪魔の存在がわかるのだ。あるときはポン引き、あるときは娼婦、他にもヤクザ、キャバ嬢、チーマー、普通の若者、女子高生、中学生……悪魔達はありとあらゆる姿かたちで人間の世界に溶け込んでいる。そして人間を堕落へと誘うのだ。だが零が相手を倒して消滅させても、騒ぎにならないのを見ると、それほど深くは人間達と関わらないらしい。姿形や服装などが学生だったりしても、実際には通っては居ないようなのだ。それに悪魔は一般的な人間には人の姿で普通に暴力を揮っても、超人的な力で殺すことや、重傷を負わせることはない。それが零には不思議ではならない。零に対しては全力で向かってくるのだが。
 そういう点で見ると、巷で人を騒がせている連続バラバラ殺人事件は異常であった。その異常な殺傷方法から言うと、悪魔の仕業という線が濃いのだが、前述したように悪魔は人の殺害などは行わない。相手が悪魔であると零は確信しているのだが、どうも普通の悪魔では無いらしい。
 ビルの屋上で零はじっと身を屈めて繁華街を見下ろす。深夜の街は既に人がまばらだが、悪魔はまだ活動している時間なのだ。ここでこうやって眺めているだけでも、パトロールとしては充分であった。

「ん?」

 ふと視界の端に何かが横切る。顔を上げた零はビルからビルを跳躍する影を見つけた。最初は悪魔だと零は思ったのだが、その割には自分の感覚に反応しないのだ。だがビルの間を容易に飛び越えていくその姿は、通常の人間では有り得ない。零は屈んだ状態から地を蹴って跳躍し、後を追った。
 正直に言えば巨大な体躯を持つ鎧、アーマード・フューリーは尾行には向いていない。零自身の小柄な体で追えばいいのだが、アーマード・フューリーのアーマー自体には多数のギミックが仕込んであり、彼女の動きをサポートする機能がある。ビルの屋上を飛んで移動するなら、多少目立とうとも、運動能力の維持にはこの格好がベストなのだ。
 謎のシルエットはとあるビルの谷間へと消えた。零はその姿を確認するために、ビルの上から下を覗きこんだ。そして、眼下に一人の男と対峙する謎の人間を見た。男は背広を着たサラリーマン風の中年で、酷く怯えたように相手を見ている。これまで夜の街を跳躍して移動していた者は、黒いシャツにピッチリとした長ズボンを履いており、体型はどう見ても女だった。特徴的なのは、目元と口元に軽く切れ込みを入れた表情の無い仮面を被っていることだ。長い黒髪と相まって、異様な雰囲気を相手は醸し出している。状況の異常性を感じ取って、零は慌ててビルから飛び降りた。

「何!?」

 ズシンとアスファルトにヒビを入れながら着地したアーマード・フューリーに、謎の女は面食らったように一歩後ずさる。零は男に背を向け、二人の中間地点に立って女と対峙した。

「おまえ、悪魔か?」
「悪魔?」

 零がフルフェイスの兜越しに尋ねるのに対し、仮面の下から女は怪訝そうな声で聞き返した。

「あなたこそ、何者よ。対策室の追っ手? それとも護衛かしら?」
「対策室?」

 聞き慣れない単語に今度は零が聞き返した。互いに相手が何者かはわからない。だが少なくとも相手は悪魔では無い、他の何かということを零は感じた。

「どきなさい、邪魔するならあなたを殺す」
「どくわけにはいかない」

 仮面越しにくぐもった低い声で脅す女に、零は鎧の下で自分の体から汗が出ているが分かった。ビリビリと自分へと叩きつけられているのは、相手からの殺気だ。悪魔と幾度も武器と拳を交わした零には、殺気というものがどんなものかわかっていた。だが目の前に立っている女が放つ気は、今まで戦っていた悪魔とは比べものにはならない。

「そこのオジさん。早く逃げろ!」
「わ、わかった」

 背後で立ち竦んでいた男が、慌てて背を向けて逃げようとする。その身体がビタッと止まった。

「どうした?」

 思わず振り返った零の目に、見えない何かに全身を拘束されている男の姿が映った。何らかの能力だと零が気付いたときには、既に遅かった。

「逃がさないわよ」

 女の低い声が零の耳に入った瞬間、男の身体がバラバラに飛び散る。まるで巨大な手に握りつぶされたかのようで、殺された男は悲鳴をあげる間も無かった。アスファルトにぶちまけられた肉片に、零は相手が巷を騒がす連続殺人犯だと悟る。

「お、お前……」
「さてと、あなたには正体を聞かないとね」

 零の耳にシュルルと何かが擦れる音が聞こえる。そして次の瞬間には、全身が絡み取られていた。

「こ、これは!?」

 間近で光る細い線に、自分の巨体を拘束している物が、極細な糸だと零は気付いた。これが男を、一瞬でバラバラにしたカラクリだったに違いない。ギリギリと強力な力で全身を縛る糸に、零は身動きがままならず、動きがとれない。金属製の鎧で身を守られているから良いが、これが生身なら一瞬で全身をバラバラにされていただろう。

「さすがに鎧を切るのは難しいわね。でも、不可能じゃないわ」

 細い糸は徐々にズブズブと装甲の中へとのめり込んでいく。その様子に零は驚愕した。自慢では無いがアーマード・フューリーの装甲は、悪魔からのいかなる攻撃にも耐えたのだ。しかしその鎧が徐々に切り裂かれていく様子は、自らの防備に絶対の自信を持っていた零にとって恐怖だった。装甲がかなり分厚いので、時間は稼げるが、何か手を打たねば自分の鎧が自らの棺桶に変わってしまう。

「く、くそー!」

 アーマード・フューリーの足裏から、装備の一つであるローラーが出現する。車軸が猛烈に回転し、アスファルトを滑って鎧の巨体が後方へと急発進した。唐突な零の動きについていけず、糸を操る女の体も引っ張られて身体が宙に浮いた。

「このっ!」

 引き寄せられた力を逆に利用し、女はそのまま零に飛び蹴りを放つ。突き込まれた足は、細い外見からは想像できないような強烈な力で、兜越しに零の頭を揺さぶる。空中で仮面の女は蹴った反動で後方に一回転しつつ、僅かによろめいた零の体へと更に数本の糸を輪にして投げつけた。女が地面に着地すると同時に、更なる鋭利な糸がアーマード・フューリーの装甲を締め付ける。

「う、うわーっ!」

 やけくそになった零は、踵の横についているスパイクを、地面へとアスファルトを貫いて打ち込む。片足のモーターが猛烈な回転数で回り、刺さった杭を軸にアーマード・フューリーの身体が独楽のようにスピンする。

「くっ! こんなカラクリが……」

 高速で回転する零に、絡ませた糸を手繰り寄せられて、女の身体が再び凄まじい力で引っ張られる。糸を更に伸ばす間も無かった。

「食らえ、アーマード裏拳!」

 宙を一直線に自分へと飛んでくる仮面の女を、零のバックハンドブローが捉える。咄嗟に両手をクロスして防いだ女の細身な体を、零は回転の勢いでそのままガード越しに吹き飛ばした。

「くぅ!」

 アーマード・フューリーの一撃は小型車一台を吹き飛ばす程の威力で、腕を叩きつけられた女の体は水平に猛烈な勢いで飛んだ。それでも彼女はかろうじてバランスを保ち、両足を地面につけて勢いを殺そうとする。更に糸を飛ばして電柱にひっかけ、彼女はスピードを減少させる。アスファルトの上を十数メートルも足で制動をかけ、ようやく仮面を被る女の動きが止まった。彼女が幾ら常人とは違うとは言え、糸で動きを制御しなければ、ビル壁にぶつかって全身の骨がバラバラになっていただろう。
 チャンスと見た零は、間髪入れずに女に追い討ちをかける。

「アーマード・クラッシュ!」

 巨体に似合わぬ俊敏な跳躍をしたアーマード・フューリーが大きく右手を振りかぶる。そして豪腕を女に向かって、直線的に振り下ろす。仮面の女は、右手から伸ばした糸を体内に勢い良く引き戻し、真横へと飛ぶ。ほんの僅かな差で女は零の攻撃をかわし、アーマード・フューリーの右手はアスファルトを割った。

「ブラスト!」

 アーマード・フューリーの右腕から幾つも伸びた円柱の突起が、勢いよく鎧の内側に向かって引っ込む。それと同時に、地面に突き刺さった右腕を中心に、舗装された地面が半径五メートルに渡って陥没した。轟音と共にアスファルトの破片が、土煙と一緒に天高く舞い上がる。

「なっ!」

 アーマード・フューリーの隠し持っていた破壊力を目の当たりにし、女は仮面越しでもわかるくらい狼狽した。女は近くにあったビルの屋上に糸を飛ばして、その先端を固定する。そして、糸を体内に巻き戻して自分の体を一気に引き上げた。あっという間に建物の屋上に姿が隠れ、仮面をした女は見えなくなった。言うまでも無く逃走したのだろう。零との遭遇は予定外だったということだろう。

「……助かった」

 女が撤退したことを確認して、零はがっくりと地面に膝をついた。威嚇が効いて、相手が撤退したことで零はほっとしている。零も思いもかけない強敵に、焦っていたのだ。アーマード・クラッシュ・ブラストと名付けた、突起を体中に引き戻す力を利用したギミックによって放つ必殺の一撃に、彼女は助けられた。(ネーミングがやたら長いのは、零の趣味だ)実を言えば分厚い鎧の装甲は、ほとんど切り裂かれており、肉体に糸が食い込むのは時間の問題だったのだ。

「一体何者なんだ」

 女が消えたビルの屋上を眺めて、零は大きく息を吐いた。






「うーん……」

 ベンチに座った零が静かな唸り声をあげる。本人は本気で悩んでいるのだが、傍から見ると、とてもそんな様子に見えない。小さい子がちょっとしたことで悩んでいるかのようだ。
 零の悩みは仮面の女に関することだった。連続殺人犯が誰だかは判ったが、零はよもや相手が人間だとは思わなかった。人間離れした能力を持ってはいたが、相手は明らかに人間なのだ。それは自分に似た能力を、彼女が有しているからわかる。人間に明らかに悪意のある悪魔は退治しても問題は無い。問題なのは人間である仮面の女を自分が殺してしまっていいのかだ。仮面の女は殺人犯だが、何か悪意とは違うもので動いていると零は感じる。
 次に零を悩ますのは、仮面の女の戦闘能力だ。相手を殺すか殺さないかは別として、とりあえず殺人は止めさせなければならない。女は前回の遭遇時には、零の言葉に全くと言って良いほど耳を貸さなかった。次回会ってもそれは同じことだろう。そうなると何らかの方法でまず戦闘不能にしなければならないのだが、零には相手に勝つ自信は無かった。

「何か手を考えなくちゃ」

 アーマード・フューリーのギミックは敵に明かしてしまった。あれだけの強敵なのだから、同じ手は二度と食わないはずだ。そうなると別の仕掛けが必要なのだが、今のところ少女には何も思いつかない。零はうんうんと可愛い声で唸りながら、真剣に頭を悩ました。

「零、どうしたの?」
「あ、先輩」

 知らぬ間に近づいていたらしく、零が座るベンチの近くに真中が立っていた。

「座っていい?」
「ええ、どうぞ」

 礼儀正しく聞いてくる真中に、零は少し端に寄って場所を空ける。真中はベンチに腰掛けると、零の顔をじっと見つめた。

「零、悩み事? 何か難しい顔をしていたけど」
「えっ? あ、いや、大したことじゃ無いんです」

 心配そうな表情を見せる真中に、零は手をブンブンと横に振って答える。まさか連続殺人犯と戦わなくてはいけないが、どう戦えばいいのかわからずに知恵を振り絞っていたとは言えない。

「それならいいんだけど……零、何かあったら、必ず言って頂戴」
「先輩?」

 真中の手が零の頬をそっと撫でる。顔に触れる繊細な指に、零は思わずドキリとしてしまう。

「私はどんなことでもいいから、零の力になりたい。零のためなら、出きる限りのことをしてあげたいの」
「先輩、そんな……」

 零の頬が赤く染まる。真中が優しいのは零も知っているが、彼女にここまで優しい言葉をかけて貰うと却って照れてしまう。それでも記憶喪失の自分に、こんなにも気遣ってくれる人物が居るのは嬉しかった。

「大丈夫。何でも無いですから」
「そう……何かあったら、言ってね」

 真中は零のことをしつこくは追及しない。だが彼女のことが気になるのか、その顔をじっと見つめる。真中の暖かな視線に、何故だか零は彼女のことを正視できない。自分は男だという認識があるのか、感覚としては異性に見つめられているような感じだからだろうか。

「先輩、そんなに見つめられちゃうと、私……」
「ごめんなさい。でも、しばらく一緒に居させて頂戴」
「それは全然構わないんですけど」

 真中はにっこりと笑うと、零から視線を外して正面を向く。それだけで零はホッとしたのだが、真中はピタリと零に身を寄せて来た。

「先輩?」
「……何だか零のことが心配なのよ」

 真中は不安そうな顔で零に告白する。

「零は私の友達になってくれた……でも、何だか遠くに行っちゃいそうで」
「そ、そんなことは無いですよ。ここにずっと居ますって……他に行くあても無いですし」

 真中の唐突な言葉に、零は少し動揺してしまう。確かに零は強敵と出会っており、もし再び戦うなら身の危険が確かにある。零の脳裏に、あのとき切り刻まれた男の姿が浮かぶ。真中は零のいつもとは違う仕草や表情から、そういうことをうっすらと読み取ったのかもしれない。

「先輩、大丈夫ですって」
「そう……それならいいんだけど」

 ごまかすようにうっすらと笑う零を、真中は不安そうに見つめる。その視線に罪悪感を覚えながらも、零には親友である先輩に真実を告げることは出来なかった。自分以外の誰かを巻き込む気は、零にはさらさら無かった。






「先輩、遅いな?」

 零はちらりと卓上に置いてある、デジタルの目覚まし時計に目をやる。夕食も済んで夜も更けたというのに、嶺は寮の部屋にも食堂にも姿を現さなかった。部活動に入っている様子の無い嶺は、普段ならば零と一緒に部屋で午後を過ごすことが多い。それがどういうわけか、今日は朝から姿が見えないのだ。零が起きた時点で、既に彼女は登校していたようで、丸一日会っていない。廊下ですれ違うことすら無かった。友人の居る部屋に嶺が遊びに行っていたりする可能性を零も考えたが、今までにそのようなことがあったことが無い。零は嶺と親密だが、残念ながら彼女の交友関係に関してはさっぱり知識が無かった。

「うーん、どうしよう」

 可愛らしい唸り声をあげて、零は上半身をテーブルに倒す。今宵も殺人犯の後を追おうと思うのだが、出撃しようにもルームメイトは不在なのだ。零が居ない間に嶺が帰ってきてしまうと、驚いた彼女が寮長や警備員に通報して大騒ぎになるかもしれない。

「……仕方ない」

 零は備品である机の引き出しを引くと、ノートを一枚取り出す。白紙のノートを千切ると、零はペン立てからマジックを取って、書き始める。

「よしっ! まあ、無いよりはマシでしょう」

 紙には「散歩に行ってきます。心配しないで下さい。零より」と彼女は書いた。深夜に散歩とは怪しいが、何も残さないよりはよっぽど良いだろうというのが、零の考えだ。零はいつも通りに窓を開けると、外へと大きく跳躍して出て行った。
 パトロールに出かけた零の目標は、やはり連続殺人犯だ。一度相対して取り逃したが、今度こそ捕まえたかった。しかし問題なのは、相手が何処に居るかである。前回、殺人者と出会ったのは、ほとんど偶然だった。今回も運良く相手と会えるなどということはほとんど無いのでは、と零は理解している。それでも可能性という細い糸を手繰って、零が向かった先は仮面の女と戦った場所だ。
 ビルの谷間にある細い路地には、幾つもの黄色いテープが張ってあった。警察が現場検証を終えた証拠なのだろう。例の如く、ミンチにされた死体と、今回は零と仮面の女が争った跡があるのだから、警察が現場に来ない道理は無かった。ただ零が少し気になったのは、新聞などにこのことがまだ出ていないことだ。もしかしたら、警察はこのことを隠したがっているのかもしれない。そんなことを思いつつも、ビルの上で周囲を見回した零の視界に、昨晩と同じ姿をした仮面の女が飛び込んできた。

「来ると思っていたわ」

 仮面の女は冷ややかな声を零に浴びせた。彼女の全身から噴出した殺気に、零は改めて戦慄する。

「犯人は現場に戻ってくるっていうのは、本当のようね。何者かは知らないけど、今度こそ殺すわ」
「く、やるしかないのか……」

 ビルの屋上をゆっくりと近づいてくる女の姿に、零の背に冷たい汗が流れる。再び対峙してみて、改めて零は相手の強烈な殺気に驚く。このときのために色々と思案した零だったが、糸使いの相手に対する策は一つしか浮かばなかった。チャンスは一度きりで、それを逃せば後は無い。

「死になさい!」

 女の放った気合の声と共に、細い糸が何本も飛んでくる。大気を走る糸は不可視に近いが、零は女の気合から攻撃を読み取った。アーマード・フューリーは軽く屈むと、アスファルト上から跳躍する。その巨体からは想像もつかないジャンプ力で、十数メートル飛び上がると敵対する相手目掛けて落ちていく。

「かかったわね」

 仮面の下から漏れた声が、楽しげに響いた。相手に達する直前に零が纏った装甲が、大気に張られていた糸の一本を切り裂く。それと同時に四方八方から糸が飛来して、零の鎧に纏わりついてその巨体を受け止めた。ビルのあちこちに張り巡らされていた糸が、用意していた一本の糸が切れるのを合図にして、目標に絡みついたのだ。零は女が張っていた罠に、まんまとかかった。

「動けるかしら? その鎧、私の糸でもなかなか切れないようだけど、時間さえあればバラバラに出来るのよ」
「う、動けない……」
「それじゃ、ゆっくりと正体を吐いて貰おうかしら……」

 女の喋る言葉に、憎悪しつつも嬉しそうな声色を感じ取って零は戦慄した。こんなに怨みがこもった声を零は聞いたことが無い。指の先から更に糸を作り出して零に巻きつけ、女は機動鎧を封じようとする。しかし、相手の動きを封じたという油断から、女は零の喋り声が何の動揺も示していなかったのを聞き逃していた。

「くそ、動けないけど……」

 アーマード・フューリーの各部位を繋ぐ隙間が、空気を漏らす音と共に大きく広がった。女が何事かと思ったときには、もう手遅れだった。アーマード・フューリーの頭部が、首の根元から背の方向へと開き、胸部も前方へと大きく開く。全身の各所につけられている円柱が装甲の中へと沈むと同時に、その圧力で開いた鎧から小柄な零の身体が射出された。小型のヘルメットに、ボディスーツのようなぴったりとした服を着ただけの零は、猛烈なスピードで女へと飛ぶ。よもや巨大な鎧の中に入っていたのが、小柄な少女だと女は夢にも思っていなかった。

「でやああああああぁ!」
「きゃあっ!」

 砲弾の如く自分へと飛び込んでくる零に、女は両腕で思わず顔面の前をガードする。だがその隙間を狙って放たれた零の拳が、女の仮面へと狙い違わずにぶつかった。アーマード・フューリーのギミックを全開にして飛んできた零の一撃を、女は完全に食らってしまう。女の顔が大きく仰け反り、仮面が粉々になって吹き飛んだ。そして仮面の下から現れた素顔に、零の動きが完全に固まった。

「真中……先輩?」

 額から血を流し、自分を憎悪の視線で見つめる女は、間違いなく真中だった。零のことを気にかけ、親愛の情を注いでくれた相手が、今は恐ろしいまでの殺気を自分へと向けてくる。唯には、自分の目が信じられなかった。それはほんの僅かな間だったが、零が呟いた瞬間に、彼女の体は完全に無防備になった。

「死ねっ!」
「えっ……うわあああああああぁ!」

 四方八方から糸が零の全身に絡みつき、ギリギリと全身を縛り上げた。糸は凄まじい力で零に食い込み、最低限の防備しか無い薄いボディアーマーをあっという間に締め上げる。零の脳裏に、糸の攻撃を受けて目の前でバラバラになった被害者の姿が浮かぶ。

「や、やめ……」
「殺してやるわよ」
「た、助けて、真中先輩!」
「えっ!?」

 糸が零のヘルメットを切り裂き、彼女の素顔を露にする。隠されていたその顔を見て、真中の目が大きく見開かれた。ショックで真中の糸をコントロールする力が、僅かに狂う。呆然とする真中の目前で、糸が零のスーツを切り裂いた。

「い、いやあああああああっ!」

 赤い血飛沫を顔に受けた真中は、悲痛な絶叫をあげた。






 先輩、泣かないで。零はぼんやりと最後に思ったことを記憶から呼び覚ました。金属製の重機動鎧をも切り裂く鋼線を食らったとき、零は間違いなく自分が死んだと認識した。真中が連続殺人犯だったのは驚いたが、自分が死ぬ間際に彼女は泣きじゃくっていた。どのような事情があったかはわからないが、自分のことで泣いてくれた彼女は、間違いなく零の知っている真中だった。親しかった先輩を泣かせてしまい、零は申し訳ないと思いつつ、これで真中が殺人を止めてくれればと思った。

「零……零……」

 優しい囁き声で、零は薄目を開けた。目の前に心配そうな真中の姿があった。

「先……輩?」
「良かった。零の意識が戻って」

 零の声に、真中は心底ほっとしたような表情で、少女の頭を撫でた。零が周囲を見回すと、見覚えの無い部屋のベッドに寝かされているようだった。

「ここは?」
「私の家よ」
「私、死んだんじゃ……」
「零、本当にごめんなさい。まさかあなたがあんな鎧の中に居たとは知らなかったの」

 零の言葉に、真中は辛そうに顔を歪める。

「先輩……」
「あなたは傷を受けて、もう少しで死ぬとこだったわ。でも、応急措置が上手くいって、出血と傷を塞ぐことが出来たから助かったわ。本当にごめんなさい」

 零が自分の胸に手を当てると、包帯が綺麗に巻いてあるのがわかった。どうやら勘違いしただけで、零は別に致命傷を受けたわけでは無かったらしい。自分のそそっかしさに、零は少し恥ずかしくなった。
 だがその実、零が受けた傷は深かった。内蔵への損傷は無かったが、真中の鋼糸は多数の動脈を断ち割り、零は出血死の手前までいったのだ。零を助けたい一心だった真中が、糸使いとして自分の潜在能力を引き出し、血管を全て繋ぎ合わせ、糸で傷口を塞げたので零は一命を取り留めた。後は零が常人とは違う生命力を持っていたため、数時間で覚醒するほど回復することが出来たのだ。

「先輩こそ、顔の傷は大丈夫?」
「あなたの怪我に比べたら、私のこんな傷なんて大したことないわ。心配しないで頂戴」

 心配する零に、真中は微笑む。真中の額には血が大きく凝固しているが、彼女は全く気にしていないようだ。生死をさ迷った零に比べれば、己の額に出来た傷など比べるべくもないと思っている。

「零……私はあなたを殺そうとしたのよ。それなのに、私の心配をしてくれるなんて……」
「先輩……」

 胸に込み上げるものがあったのか、真中は軽く涙ぐむ。そんな彼女に零は首を横に振る。

「先輩が相手だと知っていたら、絶対に手をあげたりはしなかったのに……先輩、一つ聞いていいかな?」
「何かしら?」
「先輩は何であんなことを?」
「……復讐よ」

 真中はそっと目を閉じる。

「零には知られたく無かった。でも、今なら零に聞いて欲しいと思う……最後まで聞いてくれる?」
「うん」

 自分の行いを知ってもなお、零は温かい目を向けてくれる。真中は零に嫌われるのだけは耐え難かったが、これなら秘密を打ち明けても大丈夫な気がした。真中は零の優しさに賭けてみることにした。






 真中は生まれつき身体が病弱だった。医者には十年持たないと言われた身体だが、高校生まで何とか命を繋ぐことができた。頭は良く、勉強は出来たが、学校にはほとんど登校できず、何かあるとすぐに寝込んでしまっていた。友人もほとんど出来ず、高名な研究者であった両親も忙しくて彼女にあまりかまってくれず、病院で寂しい毎日を過ごしていた。
 そんなある日、両親が真中を治療する方法が見つかったと伝えてくれた。何でもここ数年はその治療法の開発で忙しかったのだが、開発の目処がつかなかったので、真中には伝えられなかったそうなのだ。両親に見捨てられていたと思った真中は、心底そのことに喜んだ。両親が何年も忙しくしていたのは、そのような理由があったのだ。自分が元気になることより、両親が自分のことを考えて研究に没頭していてくれたのが嬉しかった。
 真中はとある研究所に連れて行かれた。簡単な健康診断の後、真中は巨大なガラスの窓がある病室へと寝かされた。研究所は巨大な施設のようであったが、真中にはどのような施設かはわからなかった。最初の検診に研究者に囲まれた以後、食事を看護婦が運んで来るとき以外は両親が時たまに来るだけであり、話す相手も居ない。真中はひたすら待ち続けた。
 真中の治療はなかなか始まらなかった。両親の説明によると、真中を被験者にするのを反対する者が何人か居るそうなのだ。真中が不安になる中、ある日両親が深夜に彼女を訪れて、治療を始めると告げた。真中は一も二も無く、頷いた。
 治療法については、父母は何も娘には語らなかった。真中が覚えているのは、エレベーターで降りて、薄暗い部屋に連れて行かれたことだけだ。中には巨大なタンクらしき物があり、父が脇にあるボタンを押すと容器を覆っていたカバーが開いて、中に人間らしき者が見えた。そこで真中は麻酔が効いて、意識を失った。
 真中が次に目を覚ましたときには、研究者が多数居た。白衣を着た男達は真中の体調を尋ね、身体を調べ始める。研究者達の中に両親の姿が見えないことに不審を抱き、真中が聞くと、恐ろしい言葉が返って来た。

「ご両親は亡くなったよ」

 唖然とする真中に、研究者の一人が続けた。真中はプロジェクト「ガーディアン・ゼロ」の被験者として、実験を施された。病弱で頭が多少良い以外は取り得が無い真中は、本来は被験者たり得なかった。だがプロジェクトの重鎮である真中の両親が、彼女の身体を慮って実験体へと強行に推薦したのだ。そして政府の命令で実験体としてのリストから外されると、両親は密かに真中への実験を行った。おかげで大事な素体の一体を不用意に消費し、プロジェクトは大いなる損失を来たした。

「だが実験が行われてしまったのなら仕方が無い。君には被験体として、働いて貰うからな」

 そう告げた中年の研究者は、ニヤリと笑った。

「父と母は……何で殺されたの?」
「ん? 政府の極秘プロジェクトを勝手に台無しにしようとしたのだ。当たり前だろう」

 事も無げに言った男の言葉に、真中は身体がカッと熱くなった。がばっと上半身を起こすと、以前には考えられなかったような素早い動きで男に掴みかかる。片手で首を掴んだだけで、相手は「げえっ!」と叫んで悶えた。慌てて周囲の科学者達が真中を押さえにかかる。

「殺す! 殺してやる!」

 真中の握力はすさまじく、そのまま男を窒息死させるかと思われた。だが科学者の一人がベッドの脇にあるボタンを操作すると、強力な衝撃が彼女を襲った。二度、三度と襲う強烈な力に、真中は意識が朦朧とする。

「ふん! スタンガンを準備しておいて良かった。全く、親が親なら、子も子だな」

 真中の手から逃れた男は、立ち上がると真中に罵声を浴びせた。怒りに身体を起こそうとした真中だが、フラフラの身体に再度電撃が襲いかかる。何度も衝撃が貫き、真中はベッドの上で悲鳴をあげる。

(殺してやる、殺してやる、殺してやる……)

 頭の中にはその一念だけが渦巻き、目の前がクラクラする。愛する両親を虫けらのように殺されたのだ。八つ裂きにしても、収まりきれない。それほどの怒りだというのに、身体は言うことを聞かない。ヨロヨロと真中は自分を罵った男に手を伸ばした。その指から、一本糸が伸びた。

「な、何だこれは?」

 自分の胸を貫いた一本の線に、男は呆然とそれを見つめた。次の瞬間に、糸が真上へと動き、男の身体が断ち割られる。目の前で起きた凶行に、科学者達が呆然としている間に、更に数本の糸が真中の指から迸り、科学者達に突き刺さる。

「うわあああああ!」

 血飛沫を身体に浴びつつ、科学者達は我先に出口へと走り出す。逃げるのが僅かに遅かった最後尾の一人は、身体が引っ掛かったと思った次の瞬間、体が三つに切断されていた。科学者達が逃げ出すと同時に、部屋の扉が閉まり、ロックされる。真中はむくりと身体を起こすと、糸を数本放って扉をバラバラにした。立ち上がった身体はかつてないほど健康で、自分には何らかの力が備わっていた。

「殺してやるわよ」

 真中はそれだけ呟くと、幽鬼のような形相で病室の外へと向かった。





「零、どうしたの?」
「い、いや、何でもないよ……」

 プロジェクト「ガーディアン・ゼロ」という言葉に、零は不快感を覚えて口元に手をやった。それは何か零の記憶に引っ掛かり、何かを思い出させようとする。だが言葉に聞き覚えがあるのに、それが何なのかはさっぱりわからなかった。

「私が人を殺したのが怖い?」
「いや、怖くないよ」

 真中の目に怯えが走ったのを見て、零は慌てて彼女を身体に引き寄せる。小さな零に抱き寄せられ、その体が密着すると真中は心に染み込むように温かさが広がる。

「両親が殺されたのなら、先輩が怒るのは当たり前だよ。でも、本当に……」
「ええ。研究所の遺体安置所で見つけたわ。顔に拳銃を撃ち込まれていて……」

 辛そうに呟いた真中を、零はギュッと抱き締めた。真中は辛い目にあったのだろう。今なら、あの無惨な犯行もわかるような気がする。

「先輩、お願いがあるんだ」
「何?」
「もうこれ以上は犯行を重ねないで欲しい」

 零の言葉に真中は唇を噛む。

「そ、それは……」
「殺された人たちは報いを受けたから、仕方ないとは思う。でも先輩がその人たちを殺したことで、捕まるのは嫌だよ」

 零がギュッと真中の身体に抱きつく。その力に、真中は身体の力を抜いた。

「わかったわ。零がそう言うなら、止めるわ」

 肉親を殺した奴らは憎んでも憎みきれない。だが既にプロジェクトに関わった多くの研究者は葬ったのだ。それに自分の私怨が零のことを傷つけた。肉親が居ない今、想うのは零のことだけだ。その彼女が自分の傷などを省みずに、真中のことを気遣ってくれているのならば、復讐するのも諦めねばなるまい。両親もわかってくれるに違いない。

「良かった、先輩が危ないと思うと気が気じゃなくて……」
「私は大丈夫よ」

 ほっとする零が愛しくて、真中は彼女の額にある髪をかき上げる。何故だろう、零との距離がぐっと近くなった気がする。

「もう一つ聞いていい?」
「何?」
「その、プロジェクト・ガーディアン・ゼロについて、知っていることを教えて欲しいんだけど」
「正直に言うと私も詳しくは無いんだけど……どうして?」
「多分、私もそのプロジェクトに関係あると思うんだ」

 零は自分の体を西洋甲冑で覆って見せる。何も無いところから全身に鎧を着た零に、真中は心底驚いた。真中はてっきり零が、何らかの兵器を使っていたように思っていたのだ。だが考えてみれば零が倒れた後に、あの巨大な兵器、アーマードフューリーの姿は何処にも無かった。

「私は何でこんな力を持っているのか、記憶が無い。でもプロジェクト名に聞き覚えがあるから、被験者だったのかもしれない」
「そうだったの……」

 零が鎧を消すと、真中が胸を打たれたような顔で彼女を見つめる。まさか自分の愛する友が自分と同じ境遇だとは思いもしなかった。彼女の記憶が消えてしまったことや、能力とプロジェクトが関係しているかもしれない。真中は両親を失った自分にこのような愛らしい友人を遣わしてくれたことを感謝しつつ、プロジェクトのことをほとんど知らないことに歯噛みした。

「プロジェクトについて知っていることは、ほんの僅かよ。ごめんなさい」

 真中が自分の知っている限りの情報を繋ぎ合わせると、次のようなことになる。ガーディアンと呼ばれる者を自分に移植したこと。そのことにより、真中に超人的な身体と、糸を生み出し操る能力が生まれたこと。そしてプロジェクトには、内閣特殊事案対策室と呼ばれる国家機関が関与していること。真中にも全貌の全ては見えなかった。

「ただ、破壊した研究所から職員の名簿だけは盗み出した。それで男達を抹殺していたの」
「そうなんだ」

 零は自分の手を見る。ガーディアンとは何なのか、そして自分は何なのであろう……彼女は自問した。





 真中と話して食事を取ると、零はすぐに眠りについた。その可愛らしい寝顔を、真中は優しく見つめ続ける。真中にとって対策室の者達は憎んでも、憎みきれない。だが自分には零に心配をかけさせて、能力を使って危険を冒させる方が恐ろしい。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい。でも分かってくれるよね」

 机の上の写真立てに真中は語りかける。写真の中に見える父母は、優しく真中に微笑んでいた。







「零、何処に行ったのかしら?」

 寮の部屋で、嶺が机の上で肘をつきながらぼんやりと呟く。休日とはいえ、明け方から零の姿が見えないのだ。今までこんなことは無かったので、嶺は心配していた。

「探しに行った方がいいわね」

 嶺は机に散らかしていた書類や写真をかき集めると、茶封筒の中へと仕舞おうとする。Project Guardian Zeroと表記された封筒を机に放り込んで鍵をかけ、嶺は立ち上がった。彼女は悪魔退治に向かったと思われる零を探すため、街へと向かおうとした。
























   































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