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■バッシュ×アーシェ


昨夜から降り続いていた雨が嘘のような朝焼けだ。
窓辺に立ち、アーシェは静かにテラスへ出た。
城下街の様子がよく見える。
早朝ということで人の流れはまばらだが、それでもぽつぽつと通りを歩く姿があった。
挨拶を交わす者もあれば、店の準備に精を出す者、様々だ。
小さいながら、活気の溢れる街だと思う。
やがては自分が守らなくてはならない街、国なのだ。
小国であるこの国は、周りの大国からの侵略に常に怯えて暮らしていた。
だが、それも明日で終わり。
隣国の王子と、この国の姫である自分の婚礼が執り行われるのだ。


「アーシェ様」

呼ばれてアーシェは振り返った。
聞き慣れた声だ。

「何かしら」

視線の先には一人の兵士の姿があった。
雄々しい顔立ちの、いかにも豪傑という表現の似合う男である。
男はうやうやしく一礼した。

「無礼を承知で勝手に入室致し、申し訳ありません。
 ノックをしたのですが、お返事がなかったものですから…」

無礼も何も。
アーシェはふるふると首を左右にふった。

「いいえ、手間をかけさせてしまってごめんなさい。
 そろそろ起床の時間なのでしょう?
 身支度を整えたら朝食を取りに行きます」


男はハッ、と返事をし、また一礼をしてから去った。
アーシェは黙ったままその後ろ姿を見つめていた。
先ほどからうるさいくらいに自室のドアをノックする音は聞こえていた。
そのうちいつまで経っても返事をしない自分に、メイド達が顔色を変え、警護を務めていたバッシュを呼んだのだろう。
万一のことがあっては。
そう考えて、ノックをしても応答がないときは、兵士が王族の部屋に入ることが認められる。
逆に言えば、そういう機会でもなければ一兵士が王族の部屋に入ることなど出来ない。
そしてアーシェは、今日の早朝の自室の警護隊長を務める者が、バッシュだということを知っていた。


いつからだったろう。
バッシュが私の部屋に入ることがなくなったのは。
それまでは彼が私を起こしに来てくれる日があったのに。
ぐずる私に苦笑を零し、優しく諭しながら抱き起こしてくれる彼の手がたまらなく好きだった。
その手を知っていたから、わざと起きるのを渋るふりをしたことが何度もある。
寝る前に二人だけで話をしたり、こっそりお菓子を持って来てくれて、一緒に食べたり。
父に怒られて部屋で泣いている私を、バッシュは抱き上げて慰めてくれたりもした。
彼と過ごす時間が、私にとってどれほど大切なものだったか。


そういうことが一切なくなって、一度だけ、堪えられなくて大泣きをして、彼にわがままを言ったことがある。
夕食が終わって、私が寝るまで部屋でお話しをしてほしいと頼んだのだ。
バッシュは頑として首を縦にふらなかった。
いつもだったらすぐに頷いてくれていたのに。

『バッシュは私のことが嫌いになったのですね!そうなんでしょ!?』

彼は困ったように、悲しそうに微笑んで、私の頭をなでた。
バッシュのそんな辛そうな顔を、私はそのとき初めて見た。

ああ、ダメなんだ。
もう彼は私のそばにはいてくれないのだ。


私は黙って彼から手を放した。
結局その夜は一晩中泣いて、乳母やメイド達に散々当たり散らした。
翌日、メイド達が噂しているのを聞いて、ようやく合点がいった。

『聞いた?アーシェ様と隊長の話』
『聞いた聞いた!アーシェ様、癇癪起こされちゃったんでしょう?
 確か、いつものお話頼んだのよね。
 隊長もそれくらい聞いてあげたらいいのに』
『王様の命令らしいわよ。
 あれ以上アーシェ様が隊長に入れ込まれたら困るから、彼をアーシェ様に近付けないようにって』
『何よそれ!アーシェ様が可哀相だわ』
『仕方ないわよ。兵士と一国の姫なんて…無理よ』


冷水で顔を洗い、したたる雫をタオルで拭く。
昔の話だ。
あのあとひどく父に叱られた記憶がある。
そして、その日からバッシュが遠征に出る機会が増えた。
まる半年くらい城にいなかったこともある。

仕方ないのだ。
兵士と一国の姫なんて、無理な話なのだから。

その日は一日、明日の最終確認で忙しかった。
朝食もそこそこに、ドレスの試着や、日程の確認、儀式の確認、うんざりするほどだ。

日も暮れ、街に明かりがともるころ、ようやくアーシェは自室に戻り息をついた。
明日、自分は結婚する。
人のものとなり、妻になる。
もう子供ではないのだ。それがどういう意味を含むかなど、理解している。

ふと、頬を何かがつたう。
手を延ばせば、それはアーシェの瞳から流れていた。
アーシェはおかしな気がした。
意味がない。
この涙は何のために流れているのだろう。
無理なのに。

寝苦しい夜だ。
バッシュは襟のボタンをひとつ外し、窓を開けた。
外からはそよそよと夜風がふいてくる。
空には月がぽっかりと浮かんでいた。
どうやら明日は晴れそうだ。
バッシュは小さく微笑んで、晴れてくれよ、と一人ごちた。

ふと、ドアをノックする音で目が覚めた。
置き時計の指す時刻は午前1時。
バッシュはそばに置いてあった長剣を手にし、ゆっくりとドアに近付く。

「…誰だ?」
「私です」

突然の声に驚きながら、バッシュは内鍵を外し、ドアを開けた。
果たしてそこには、今日婚礼の儀式をするアーシェの姿があった。

「アーシェ様っ?」
「静かに。…中に入れて」

バッシュは戸惑ったが、アーシェは構わずに部屋に入って来た。
仕方なく、バッシュはドアを閉めた。

「どうなさったのですか?警護の者は?」
「………」

出来るだけ優しく問い掛けたが、アーシェは黙ったままうつむいていた。
夜着だけの体は、普段より一層細く、頼りなく見えた。
この体にこの国の将来がかかっているのだと思うと、ひどく胸がきしんだ。
それは彼女が幼いころから感じていたことで、そんなアーシェを不憫に思い、バッシュは何くれとなくいろいろな世話を焼いた。
こんな結果になるとは思わなかった。
いつかの王の言葉が、今になって痛いほど胸に染みる。

『お前を信頼していないわけではないのだ。
 ただ…アーシェには先がある。今、つまづかせるわけにはいかんのだ。
 …わかってくれるな、バッシュ』

自分だけが焦がれている。
そう思っていたのに。
気付けば、アーシェがこちらを見上げていた。
バッシュは彼女に近付きながら話しかけた。

「本当にどうなさったのです?部屋まで送りましょう。
 眠れないのなら、メイドにホットミルクでも持たせます」
「…いて」
「アーシェ様?」
「抱いて」

それまでぴくりとも動かなかったアーシェが、小さな子供のようにバッシュに駆け寄り抱き付いた。

「一度だけでいいのです。今夜だけ、今だけ…!
 誰かのものになる前に、あなたのものになりたいの」

バッシュは黙ったままその場につっ立っていた。
どうしたらいい?
彼女の気持ちが、この上もなく嬉しい。
自分は今、将軍でも兵士でもない、ただの男になり下がろうとしている。
出来ることなら、このまま彼女を連れ去りたい。
彼女は一国の姫君なのに。

「バッシュ…」

アーシェが、自分が警護隊長を務める朝だけ、ノックに返事をしないことを知っていた。
時折ぶつかる視線に、今にも溢れそうな想いを込められていることを知っていた。

何より、自分は彼女を愛している。

「お願い、お願いです…私を…」

震える細い体を、バッシュはそれでも引き離した。

「なりません」

堅い声で返事をする。
アーシェは引き下がらなかった。
堰を切ったように涙を流し、バッシュの手から逃れようとした。

「いや…嫌です!私帰らない!」
「アーシェ様」
「嫌よ!私はあなたを!」
「いい加減にしなさい!」

バッシュから出た低い怒声に、アーシェは押し黙った。
涙だけがぽろぽろと零れる。

「あなたは自分の立場を理解していない。
 もう子供ではないのです、わかるでしょう。
 …さあ、お部屋へ」
「………」

アーシェは糸を失った吊り人形のように、その場に崩れ落ち、座り込んでしまった。

「アーシェ様っ」

バッシュは急いで彼女を抱き起こす。

「…いやぁ」

アーシェはただ泣いていた。
そしてまた、彼にしがみついた。

「バッシュを愛してる」

もう駄目だ。限界だ。
頭のどこかで、警報のような鐘が鳴り響いている。
バッシュはアーシェに口付けを交わしながら、そんなことをぼんやりと思った。

シーツの合間に彼女を下ろしながら、キスを深くする。
アーシェの舌は羽のようで、どこかふわふわした舌触りがした。
唇を下へ下へと動かして、アーシェの夜着の合わせをとく。
現れた双丘の頂きにあるものをくわえると、彼女は切なそうに眉をひそめた。
何度か名前を呼ばれたような気がしたが、考えないようにした。

自分が今抱いているのは彼女なのだと意識してしまうと、歓喜と罪悪で押し潰されそうになる。
バッシュは黙ったまま行為を進めた。
アーシェもそれは同じことのようで、時々堪えきれないといったように喘ぐ以外は、声を押し殺していた。
誰かと抱き合うのはこれが初めてなのに、それでもアーシェは不思議と怖くなかった。
バッシュは、どこまでもアーシェに優しかった。
何もかも今始まった。そんな気さえした。


***


「ここ、傷痕がある」

温かい腕の中で、アーシェは愛しい人の体をじっと見つめて、小さな発見をしては楽しんでいた。

「…それは、5年前の遠征の時につけたられたものです」
「痛かった?」
「痕が残るくらいですから、多少は」

バッシュは、アーシェの髪を梳きながら、ひとつひとつ丁寧に言葉を返してくれた。
アーシェはそれが嬉しくて、彼の体を隅々まで見ようとする。
そんな彼女にバッシュは苦笑した。

「もう眠りましょう。…今朝は早いのです」

アーシェは弾かれたように彼を見た。

「…そうですね。ごめんなさい」

くるりと背を返し、彼女は零れそうになる涙を堪えた。
これ以上、彼に何を望むつもりなのだろう。
バッシュは自分の気持ちに応えてくれた。

それで十分ではないか。
バッシュは震える肩を抱き、アーシェを後ろから優しく抱き締めた。

「私の心はあなたのものです、アーシェ様。
 今までもこれからも、ずっと変わることはありません。
 生涯、あなたに操を立てます。誓います」

アーシェは振り向き、泣きながらバッシュにキスをせがんだ。
バッシュは優しくこたえる。


今日、アーシェは結婚する。
他の誰かのものになり、妻となる。
それでも覚めない窓辺を、朝日がゆっくりと照らしていた。

【終】




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